藤原定家の熊野詣をトレイル⑨ DAY2 気遣い下手なフジワラさん
コメダ珈琲を出ると暑さがいっそう厳しい。それでも南へ歩いていくと「和泉式部歌碑」と、これ以上ないほど雑に書かれた看板がある。
そういえば和泉式部の最初の旦那が和泉守だったため、一緒に赴任したときのだろうか。“和泉”の名もここから来ているが、別れた後は何と呼ばれていたのだろうか。そんなことを考えながら、和泉式部の実家が大江氏だったことを思い出す。
貴族といっても出世の望めない下級貴族の大江氏だが、藤原定家の時代には大江広元が鎌倉幕府の重鎮になっていた。後に、鎌倉武士の宇都宮頼綱と親しくなるのだが、まだこの頃は鎌倉幕府など歯牙にもかけず、御所の出世沼から出られないでいる。
ただ、定家も出世する気はあるのだが、はなはだ心もとない。
例えば、歌碑をくだると津田川があり、渡った先の坂の上に浅宇川(麻生川・あそがわ)王子がある。営業上手ならば、社長や専務である上皇や内大臣の歓心を買うために川を渡る前で待ち、渡し船を用意しておき、「はい、お疲れさまです。上の王子で冷えたお茶を用意しています!」くらい言いたい。しかし、王子で待っているということは、丘の上から「上皇たちが川を渡っているぜ、ケケケ」と見下ろしていることと変わらず心象は良くない。石田三成の三杯のお茶の話でも教えてあげたくなる。
先を急ごう。麻生川王子跡とされる工場は府道30号線沿いにあり、旧熊野街道はそこから分岐した細道に入る。そこには唐間池というため池があり、その脇にジャングル化した半田一里塚があるらしいが、見えない。
この唐間池に限らず、泉州は降水量が少ないため池が多い。そのため稲よりも水を必要としない綿花が昔から積極的に生産され、江戸時代には「和泉木綿」として一大ブランドとなった。その後、輸入などで衰退するものの、高度成長期には繊維産業の活況で「東洋の魔女」に代表されるように盛り上がったが、また衰退し、一周まわって今は泉州タオルが名産になっている。
気候が産業を決めるのは当然といえば当然だけれど、栄枯盛衰を繰り返しながらも軸がまったく変わらないのには驚く。一説によれば、最初に綿花を持ち込んだのは弘法大師だとか。ひょっとしたら一行も綿花畑を見たかもしれない。
その後、近木(こぎ)川を渡り、京極さんが昼ご飯を食べたとされる鞍持王子、次の胡木(近木)新王子を合祀する南近義神社に参った後、粉河街道を通って、上皇一行が昼食をとった鶴原(鶴子?)王子推定地を超えると、いつの間にか小栗街道に戻っていた。さすがに疲れてきて、もう止めたいなと思っていると、遠くにりんくうタワーゲートビルが見えてきた。
もう今日は佐野王子で終わりだ!佐野川を渡り、疲れ切って藤原定家の旅など、どうでもよくなった頃に佐野王子が現れた。
その後、何とか泉佐野駅前まで辿り着き、喫茶店に入ってフルーツジュースを頼む。甘さに悶えながら、とりあえず、家に帰ることにする。
一方、定家のいる後鳥羽上皇一行の3日目は次の籾井王子のそのまた次、厩戸王子がゴール。
しかし、それはまた次の旅になる。