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京極さんの熊野詣トレイル① DAY1 窪津王子

22時過ぎにバスタ新宿を発った高速バスは夜通し走り続け、次の停車地である梅田を目指している。バスの車窓は安眠のために厚いカーテンで覆われているが、カーテンと窓の間に潜り込めば、東の空がほのかに明るくなっていく様を眺められる。外の光を漏らさぬように窓に張り付いていると、いつしか淀川を渡っていた。ということは、まもなく大阪だ。

いまから823年前の同じ月。平安末期から鎌倉初期に活躍した”歌聖”藤原定家もまた、後鳥羽上皇の熊野御幸に随従していた。こちらは少し早いとらの刻、早朝4時に「カケコー」の声とともに数百人にも上る一団が鳥羽離宮を出発し、船に乗り、淀川を下りはじめた。当時、後鳥羽上皇は21歳。和歌や蹴鞠だけでなく武芸にも秀で、やたら元気なのにすでに隠居の身。そんな若者が一行を統べているのだから、万事派手でかしましい。そんな船旅もやがて渡辺津、いまの大阪の八軒家浜に到着する。

バスは6時過ぎに大阪駅前に着いた。「めぐりズム」のおかげで結構眠れたので、そのまま上皇一行の船が着く八軒家浜、天神橋辺りまで歩きはじめる。通勤の時間までにはまだまだ余裕もあり、殺人的な暑さもおさまったことで、暦どおりの秋めいた涼しさになっていた。

かつての物流の大動脈


平安中期から天皇や上皇、時の権力者たちによって盛んに行われた熊野詣。なぜ誰もが熊野を目指したのか。それは熊野とはあの世であり、極楽浄土であり、そして黄泉がえりの旅だったから。当時は末法の世。ノストラダムスの大予言ばりに世界の終わりを意識していたのだろう。
権力者たちの熊野へのルートは京都からは船。そこからは熊野までテクテクとひたすら歩く。途中、王子と呼ばれる神社がいくつもあり、それぞれに参りながら、たまに休憩し、時には王子を宿舎として使った。今回、九十九王子といわれるほど数多くあった王子をたどる定家の足跡を追いながら熊野を目指そうと思う。

最初の王子は渡辺津からほど近く、いまは坐摩(いかすり)神社のある場所にあったとされる「窪津王子」。ただ、神社の門はまだ開いておらず、お参りは次の機会にしよう。


ちなみにここらは、全国の渡辺さんの発祥地。源頼光が酒呑童子を退治したときの4人の武将のうちのひとり渡辺綱を祖とする一族の領地で、豊臣秀吉がこの一帯から渡辺一族を追い出すのだから、かれこれ600年近くも治めていたことになる。ただ、綱さん自体は東京三田のいまの慶應義塾のあるあたりの生まれらしく、あちらもかつては綱町と言われていたそうだ。
頼光組は金太郎も含め関東出身者が多く、当時から東と西の往来が頻繁だったことがわかる。人というのは移動する動物だなぁと改めて思いながら、2番目の坂口王子を目指す。


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