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図書館の裏側にはもう一つ図書館がある

女子高校生だった頃「三国志」にすっかりはまり込んで、当時出版されていた小説を次々に読み、陳舜臣本まで読み上げてもまだ熱が冷めなかった。
読みたい気持ちは募るのばかりなのに、もう読める本がない。
あとは「演義」しかないと思いつめて、意を決して町の図書館へと向かった。
中国古典全集のようなものがあって、その中に上下巻に別れた「演義」があることはわかっていたのだ。二分冊と言ってもそれぞれが辞書のように分厚くて、ページの上段が書き下し文、下段が原文(漢文)という難物だ。
でもわたしは少しも怯まなかった。
暗記するほど「三国志」を読んでいるので、書き下し文に読めないところがあっても、筋がわからなくなる心配は全くない。晴れて読破した暁には、この上もない達成感に満たされるに違いない。
まさにそれは、コンプリートの瞬間だ。

貸出期間は二週間なので、一冊ずつ借りることにした。
二週間かけて一冊ずつじっくり読み、一か月後には完読している計算だ。
さっそく上巻を借りて帰り、他の勉強など一切そっちのけで、その日から連日「演義」を読みふけった。
予定通り二週間で上巻を読み終えて、下巻に移り、半ばが近づく頃にはかなり気分が高揚していた。いくつかの名場面を楽しみに読み進めていたのだが、中でもとりわけ楽しみにしていた場面が、どんどん近づいていたからだ。

怪しげな医者華佗が、毒矢に打たれた名将関羽を治療する場面。
歌川国芳の錦絵にもある名シーンだ。
実はこの場面、作家によって結構違いがあったりする。大半は、勇敢な関羽が治療の痛みなどモノともしなかったという流れなのが、正史に近いとされる陳舜臣本は全く違っていた。
だから、「演義」ではいったいどう書かれているのか、読む前からかなり楽しみにしていたのだ。

ところが、いよいよ関羽が毒矢に打たれて・・・となったあたりからどうもおかしい。
既視感があるのだ。
ストーリーにではなくて、書き下し文そのものに、明らかな既視感がある。
何事かと思い、ページ番号をパラパラと見返して愕然とした。
落丁だ。
本はたいがい、「折丁」と呼ばれる数ページから数十ページ分の薄い冊子をいったん作り、それを何冊も束ねて製本する。
その「折丁」がまるまる一冊分抜け落ちているのだ。しかも、同じ「折丁」をもう一冊繰り返すという「取り込み」の状態。既視感があって当たり前で、全く同じページをもう一度読み返していたことになる。
おそるおそる先のページをめくると、関羽の治療はすでに終わり、もはや華佗はどこにもいない。
呆然とした。
この一か月間の努力をどうしてくれるのか。
高価な全集は個人で買える代物ではなく、ましてや高校生のお小遣いで買えるわけがない。
このままもう二度と、この部分だけ読めないに違いない。

そう思うと気持ちは沈んだが、その後数日かけて何とか最後まで読み通し、不完全燃焼状態のまま下巻を手に、返却のため図書館へと続く坂道を上った。
図書カウンターにいた職員の女性(司書さんだと思う)に、かくかくしかじかと事情を説明しながら、半ベソになっていた気がする。
「これはひどいわね」と職員の女性は顔をしかめた。
でもすぐに、「もう一冊あるので借りますか?」と微笑んだのだ。
モウイッサツ? ドーユーコト?
わたしがあまりにも要領を得ない顔をしていたらしく、職員の女性は親切に説明してくれた。

図書館というのは本を購入する際、同じ本を必ず二冊買う決まりになっている。だからこの「三国志演義・下巻」はもう一冊あり、図書館内に保管されている。

つまり、図書館の裏側にはもう一つ図書館があるということで、想像しただけでワンダーランドに迷い込んだような気分だった。
ありがたくその場で読ませていただき、コンプリートだ!と、わたしはかなりの上機嫌で坂道を下った(スキップしていたかもしれない)。

ずいぶん前の話なので、今でも同じシステムかどうかはわからない。
でもおかげで、「三国志」オタクだった女子高校生の努力は報われた。
また似たような女子高校生が現れないとも限らないので、この「必ず二冊」という素晴らしいシステムは、是非とも継続していただきたいなと思っている。

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