キュビスムのまとめ〜後半〜ピカソ・ブラック以外のキュビスト〜
このnoteは自分の理解を深めるために、いろんな所より情報をかき集めたnoteになります。情報が膨大なので、大事な箇所・興味ある箇所でまとめています。
前編と後編に分かれていますので、興味ある方は前編もご覧ください。今回はピカソ・ブラック以外のキュビストについてまとめました。
【ピカソ・ブラック以外のキュビスト】
これには、呼び名が4種類あります。
この4種類のうち、上3つはピカソやブラックに対しての呼び方になります。
ピュトー派
モンパルナス・キュビスト
サロン・キュビスト
セクシオン・ドール
◆ピュトー派
パリの郊外の街、ピュトーという街にデュシャン3兄弟がいました。
ピュトーに住んでいることから、その辺りに住んでいる人たちのことを言うようになりました。後でデュシャン3兄弟については話します。
また、ピカソたちが住んでいた「洗濯船」=「バトー・ラヴォワール」
「バトー」と「ピュトー」で韻を踏んでいました。
◆モンパルナス・キュビスト
この時期は、モンマルトル(洗濯船)からモンパルナスへ、1910年以降からアートの中心が変わってきます。ピカソも後にモンパルナスへ引っ越します。
モンパルナスは、キュビスムよりもエコール・ド・パリ(パリ派)で有名です。(藤田嗣治さん・アメデオ・モディリアーニ・シャガールなど・・・)
モンパルナスにも洗濯船と同じように、集合アトリエ兼住宅がありました。(ラ・リューシュ)
◆サロン・キュビスト
ピカソやブラックは、画廊で個展をしていたが、その他の人たちはもっと公募展やいろんな人の目に届く広い展覧会に出品していました。活躍の場がギャラリーではなく、サロンがつくような場所でやっていたため、サロンキュビストと言われています。
◆セクシオン・ドール(黄金分割)
前衛画家グループ、セクシオンドールというグループを作り、雑誌をだしたり展覧会を開いたりします。
【フアン・グリスとフェルナン・レジェ】
この2人はグループに属しません。そしてこの2人はサロンキュビストとピカソやブラックをつなぐ、つなぎ役にもなりました。
◆フアン・グリス
スペイン人で1906年にモンマルトンに住み、洗濯船によく出入りしていました。ピカソとブラックの実験を近くで見ていた一人です。
その後、2人に仲間にいれてもらえないので、サロンキュビスト派の仲間と一緒に展覧会に出品していました。
「ピカソ肖像画」〜1912年 シカゴ美術館〜
その後、作品をみたカーンワイラー(画商)が評価し1913年に契約します。なので、サロンキュビストになったり、ギャラリー画家に戻ったりしました。
ちなみに、マティスが迷走してキュビスムになった時代がありましたが、それは第一次世界大戦中にスペインの国境に近い、コリウールという場所でグリスと出会って、色々教わってマティスにもキュビスムになった時代がありました。
「白とバラ色の頭部」〜1914年 ポンピドゥー・センター〜
実質マティスに、キュビスムを教えた男といっても過言ではありません。
またピカソと違って、戦争が終わった後も、キュビスムを追求しますが1927年40歳で亡くなってしまいます。
「朝の食卓」〜1915年 ポンピドゥー・センター〜
総合的なキュビスムを描いています。
◆フェルナン・レジェ
建築製図から画家になった人です。
1908年頃からラ・リューシュの仲間と付き合い始めました。
1913年にはカーンワイラーと契約します。なので、この人もサロンキュビストから始まりましたが、ギャラリー画家へ移行しています。
どちらも1914年に第一次世界大戦がはじまるので、契約は1年程度しかありませんでした。
「婚礼」〜1911年~1912年 ポンピドゥー・センター〜
レジェは円筒やメカが好きです。
「パイプを咥えた軍人」〜1916年 所蔵不明〜
メカを取り入れるのが早く、やたら円筒をいれたがるので、キュビスムではなく、チュービスムとも言われるぐらいでした。
また大戦後、色を沢山取り入れるようになります。
「母と子」〜1922年 バーゼル美術館〜
この作品が1960年から70年代に、ポップアートブームの時に先駆けでは?ということで大流行しました。
【キュビスムを広めた画家たち】
ピカソやブラックの作品は、閉鎖的で見れる人が限られていました。
そのため、広めたという意味だけでいうと、一般の人たちも見ることができるサロンへ出品していた、サロンキュビストたちなのかも知れません。
また大体の画家は、
点描⇒フォーヴィスム⇒キュビスムという流れになります。
(例)マティス
◆点描
◆フォービスム
◆キュビスム
このような流れが、主流になっています。
そのため、よくフォービスムとキュビスムは対立している!と言われておりますが、むしろ皆フォービスムを通ってからキュビスムに転向しています。
ただ、唯一その流れを通っていないのがピカソでした。
ピカソは異色で、そのためピカソを中心史観で見るとキュビスムを見失います。
そして1912年にジャン・メッツァンジェがキュビスムについて書いた本を描きます、これが理論書みたいなものになって、国際的に広まるきっかけにもなりました。
◆キュビズムについて
1913年にはセクシオンドールはアメリカに進出します。アメリカのアーモリーショーという展覧会を開催し、かなり話題になりました。
ここに展示していたのでデュシャン三兄弟でした。
この人たちがピュトーにいたからピュトー派がいわれるようにもなりました。
この三男のマルセル・デュシャンが、「アートだといえばなんでもアートになる」という人で、アメリカで自分がウケる事を知り、ニューヨークで活躍していきます。
またキュビスムは絵画だけではなく、映像作品や建築もあります。建築はチェコで異常に流行りました。今でも沢山残っており、日本にも残っています。
【キュビスムの最重要人物?!】
それは、ロベール・ドローネーです。
ロベール・ドローネーが描いた、キュビスムの作品で代表作になっているのは以下の絵です。
「パリ市」〜1910年~1912年 油絵 ポンピドゥー・センター〜
この作品は、かなり大きく267×406センチあります。
キュビスム界屈指の超大作になります。
この絵はアンリルソーの絵を引用して描いていたり、女性たちは古代の女神三美神の写真を見て描いていたり、横にはエッフェル塔があったり、古代と現代を表されていて、コラージュされているように色んな事が含まれています。
これ以降でかい作品が流行りました。そして、ドローネは奥さんのソニア・ドローネと色んなことをします。
2人はやっぱり色彩だよね。ということで色を沢山使います。以下作品のようにもなります。
「円形、太陽 no.2」〜1912年~1913年 ポンピドゥー・センター〜
ドローネーはキュビスムから抽象画にいきました。
これも一つの抽象画の先駆けとなりました。
1911年の時点でキュビスムはアメリカに届いていました。
そして、世界中に似たような動きが起きます。
【イタリア未来派とは】
この時代には、イタリアには未来派という運動がおきていました。実は、イタリア未来派閥とフランスのキュビストは仲が悪いです。理由はどっちが先か問題などです。
イタリア未来派の最大の特徴は、スピードや運動を重視していました。とにかく動いていたり、とにかく勢いがあるような絵が多いです。
キュビス厶は静的に自然を分解していくものになります。
「槍騎兵の攻撃」〜1915年 所蔵不明〜
マルセル・デュシャン(デュシャン三兄弟)の以下作品には動がはいっているのではないかと、フランスで展示で仲間から出品を止められたこともあります。
「階段を降りる裸体 no.2」〜1912年 フィラデルフィア美術館〜
イタリア未来派のダメなところは、ファシズムに協力してしまいました。そのため、1980年代までずっと評価されずにいました。逆に1980年代は異常にブームになりました。
そして、新たにキュビスムと未来派の影響を受けて、ロシアで生まれたのがクボ=フトゥリズム(立体未来派)でした。
その代表がマレーヴィチです。
「ナイフ研ぐ男」〜1912年 エール大学美術館〜
この作品は動きもあり、分析的キュビスムも入っています。
ですが、いきなり以下の作品になります。
「黒い正方形」〜1915年 トレチャコフスキー美術館〜
最終的に彼がたどり着いたものこそ「シュプレマティズム(絶対主義)」と呼びました。対象を正確に再現するという「リアリズム」を捉え直し、手法そのものを露出させる芸術意識のもと、マレーヴィチは「もの」を描くことをやめました。
つまり何かを再現するときに求められる「約束事」を放棄しました。シュプレマティズムは厳密にいえば、ある「もの」を抽象しているのですらないのかも知れません。
そのかわりに絵画の本質とみなされたものこそ「色彩」であり、彼はそれを単なる「対象」の彩りではなく色彩のエネルギーとして自立させようとしたのであると言われています。
この作品を見たカンディンスキーとシャガールにも大きな影響を与えました。
そして、多くの画家がキュビスムに影響をうけて活動していました。
日本から影響を受けていった人は東郷青児さんや岡本太郎さん萬鉄五郎さんや藤田嗣治さんなどです。
本当に、1910年代のアーティストは一度はかかるはしかです。
【その後の変化】
第一次世界大戦後、ピカソやブラックはキュビスムから離れていきます。
ただ終戦後いろんなジャンルの作品が出てくることによって、キュビスムが新しいものではなくなっていきます。
そしてキュビスムは、もっとわかりやすいキュビスムにしましょう!という流れになっていき、ル・コルビュジエから以下作品がでてきます。
「静物」〜1922年 ポンピドゥー・センター〜
具体的な形の本質だけ描きましょう。というのがピュリスム(純粋主義)といいます。
1920年に「エスプリ・ヌーヴォ」という雑誌がでて、このピュリスムを広めます。この雑誌で、ジャンヌレグリのペンネームがル・コルビジエでことがわかります。
ちなみに今回キュビスト展が展示された西洋国立美術館も、ル・コルビュジエが設計しました。
1925年の国際装飾芸術博覧会で、アールデコ(装飾美術)が流行りました。そこで人気になったのが、エスプリヌーヴォ館というパビリオンです。
かなりモダンで大流行しました。
絵というのは環境と一心同体です。
モダンな家には、どんな絵が飾りたいか。そういった考えで絵を選ぶ人々の心の動きが始まりました。
キュビスムは、モダニズムというより大きな社会の変化の一部で、芸術だけの動きではないことが証明されます。近代文明が街を社会を変えていきました。
ここまでがキュビスムのまとめです。
キュビスムから生まれた芸術や文化は、絵画だけではありませんでした。そこまで影響がある芸術運動は他にもあるでしょうか。やはり芸術の背景を知るのは、楽しいです。
私が資料として参考にしたのは、
2024年キュビスム展の図録
山田五郎さんのYOUTUBE
wikipedia
から情報を得ていますので、私の主観は一切ありません。
また、前半はピカソとブラック中心のキュビスムのまとめです。
ほなね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?