やっぱり!不自由すぎるよ自由意志(じゅいし)ちゃん!増補改訂版(或いは自由意志が不自由であることの証明)
初めに
今回のnoteでは、「自由意志は不自由である」という命題を、関係する言葉の定義なども含めて一から証明する。証明の流れを説明すると、定義した自由意志について、自由意志の初期値が不自由であり、尚且つ任意の時間tと時間間隔aについて[t,t+a]で自由意志が不自由に変化していくことを示すことで、任意の時間において自由意志が不自由であることを示す。また、自由意志の変化に関係する環境についても同様に不自由であることを示す。
ここで注意しておきたいのが、今回主張する命題の意味するところは「自由意志は存在しない」や「私たちの行動は何かに操られている」や「私たちの運命は初めから決められているのでそれを変えることは絶対に不可能だ」ということではなく、「自由意志は存在するし自分の行動は自分で決定することもできるが、その決定を行う自由意志を自分で決定することができない」ということであり、陰謀論や運命論、決定論などとは区別されるものである、ということだ。詳しくは不自由の定義のところでも述べるが、このことを頭の片隅に入れておいてくれるとそれぞれの言葉の定義やその意味するところを理解しやすくなると思う。
また、証明に用いられる数学は最大で大学一年生レベルのものなのだけど(具体的には数学的帰納法、開集合や閉集合など)、正しい議論ができているか不安なので指摘などがあったらお願いします。
言葉の定義
というわけで今回の証明に関係する言葉の定義をまず書いていく。過去の証明ではここをおろそかにしてしまっていた感じがややあるので、丁寧に行きたいと思う。なお、文章の構成上その言葉が登場したときに定義する言葉もある。
自由意志の定義
今回考える自由意志とは、何かについて思考し自分の行動を決定する関数のようなもの、であるとする。我々が普段行っている思考や決定は、その活動が意識下であろうと無意識下であろうと、全て自由意志が行なっているものだ、とすることができる。
自由意志に含まれるものとしては、様々なものに対して自分が持っている選好や価値観、あるいは肉体が持つ神経系などが考えられる。
上で自由意志は関数のようなものであると言ったが、この言い回しにはある程度の意味がある(数学的な言葉を無理に使って自身の主張の見栄えを良くしようとする哲学仕草ではない、ということ)。
どういうことかと言うと、ここでは自由意志を、時間によって変化していく関数のようなものとして考える。(ようなもの、と濁しているのは具体的な関数の形が皆目見当がつかないからだ。効用関数などとの類推で考えると適当な次元のベクトル関数として書けるのではないかと考えているが、少し試してみても現実に即したモデルを作れる気がしなかった。)
この定義は、後に続く不自由の定義での議論において直観的な理解がしやすいような形をとっている。詳しく言うと、人間が行う様々な思考や意思決定について、それらは思考や意思決定に関係する情報と、情報を何らかの形で計算する自由意志によって決定され、さらにその計算は過去の経験などから得られた何らかの計算則(選好や選択肢の提示など)に基づいて行われる、という意思決定のモデルをイメージしやすいように定義している。
また、自由意志には過去の認識によって得られた情報も含まれているとする。つまり、自分が持つ情報と、それを用いて思考をしたり行動を決定したりする関数のようなものをまとめて自由意志と呼ぶ。
認識の定義
以降で扱う認識とは、ある自由意志が視覚や聴覚などの感覚を通して外部の環境から情報を得ることと、自分が持っている情報について思考し新しい情報を得ること、そしてそれらによって自由意志を変化させること、とする(ここでの自由意志の変化には、自由意志内に含まれる情報の変化と、情報を用いて何らかの決定を行う関数の変化の両方が含まれている)。
そのため、僕たちが文章を読んで何かを新しく理解することや、その理解によって自分の行動基準を変えること、つまり自由意志を変化させることや、ただ単に物を見たり聞いたりすること、思索によって自分の考えを深めていくことなどは全て認識に含まれる。また、睡眠中の脳の働きや、特に何も意識することなく何かを見ている場合など、自由意志が自発的に行なっていない認識も、自発的でないだけでそれを行なっている自由意志が存在することには変わりないので、ここでは認識の一つとして考える。
定義から分かるように、認識は自由意志によって行われる。この点は後程重要となってくる。
ただし、以下の議論では様々な認識の細かい性質や、認識の、物理世界における実際の作用についてはほとんど考えない。むしろそういったことが明らかになっていなくても、あまり多くない仮定や原理から、自由意志が不自由である、ということを示せるのが本証明の優れた点であると考えている。
情報の定義
この証明における情報とは、自由意志が行う思考や決定に用いられる、様々なものの状態や、複数のものの間の関係、またそれらについて推論したものであり、情報は環境や自由意志に対して認識を行うもので獲得されるものである、とする。
情報の例を挙げると、冷蔵庫に何が入っているか、という情報や、先日飲んだあのジュースは美味しかった、という情報、過去の行動によって得られた経験や反省点などが考えられ、これらは自由意志が思考や決定を行う上で重要なものとなる。冷蔵庫に入っているものと自分の選好を用いて夜ご飯を決めたり、自動販売機で何を買うかを過去の経験や人から聞いた噂などの情報を用いて決定したりというのは情報と自由意志を用いた意思決定としてわかりやすい例だと思う。
そして、定義にもあるように情報は環境や自由意志に対して認識を行うことで獲得されるものであるので、ある認識で獲得される情報は、その認識に関係する自由意志と環境によって決定されるものである、ということがわかる。このことは後の不自由の定義のところで重要となってくるので覚えておいてほしい。
環境の定義
環境とは、僕たちが認識できるもののうち自分の自由意志以外のもの、であるとする。環境はそれ自体によって、あるいは僕たちの行動によって変化するものであり、その変化が自分にとって不自由であることも後に示す。
環境の具体例としては物理世界全体や自分以外の自由意志、あるいは自分が置かれている物理的、精神的、社会的状況などが挙げられる。
また、今回の証明では、ある時間tにおいて自由意志と環境がそれぞれ不自由である、ということを同時に仮定するので、自分の自由意志が環境に含まれると考えても証明にはあまり影響がない。
決定の定義
決定とは、未だ確定しておらず複数の状態を取り得るものや事柄に対して、自由意志を用いた認識によっていずれかの状態を選択し確定すること、とする。
決定の具体例としては私たちが普段行っている様々な意思決定が挙げられて、夜ご飯に何を食べるか、などのある程度時間をかけて行われるものや、瞬間瞬間での自分の行動の決定などのごく短い時間で行われるものなどが考えられるが、これらは全て自分の自由意志を用いた認識によって行われているため、上記の定義を満たす決定だという事が出来る。
不自由の定義
ここではあるものAの存在や、Aが時間と共に変化していくことについて、どういったときにそれが自分にとって不自由であるかを定義する。
まず、Aの存在については、
①Aを自分の自由意志を用いて決定できない時
②Aを自分の自由意志を用いて決定できるが、その決定の過程が自分にとって不自由である時
のいずれかが満たされていれば、Aは自分にとって不自由なものだと定義する。
Aが変化していくことについても同様で、
①' 変化する前のAとその変化の過程が両方とも自分の自由意志を用いて決定できない時
②' その変化の過程は自分の自由意志を用いて決定できるが、変化する前のAと、変化の過程を決定する過程が両方とも自分にとって不自由である時
のいずれかが満たされていれば、変化した後のものA'は自分にとって不自由なものだと定義する。
Aに含まれ得るもの、つまり不自由だと見做され得るものの具体例としては自由意志や環境、自由意志が行う認識や私たちの行動などが挙げられる。
この定義は後の議論で非常に重要になってくるので、丁寧に説明していきたいと思う。
初めに、不自由をこのように定義したことについて。
今回の定義では、不自由であることとは自分で決定できないことだ、というのがその根幹にあり、①と①'はそれを直接定義として表している。そして、この ”自分で決定できない”というのは①や①'だけではなく、その決定の過程が自分にとって不自由である場合も含めるというのが②、および②'の条件が表していることとなる。具体的にどのような考察を経て②と②'を不自由の定義に加えて良いという結論を得たかは、この後の②について説明する部分で議論している。
また、不自由について考える上で「自由とは何か」という疑問は避けては通れないものだが、今回の証明では自由についての明示的な定義を行なっていない。その理由はごく単純で、今回の議論を行なっていった時に、自分にとって自由であるような具体例が一つも無くなってしまうからだ。具体例が存在しないものについて定義することにはあまり意味がないように思うので、ここでは自由の定義についてはあまり考えない。ただし、あえて定義するならば、自由であることとは、何の束縛も受けずに自分でそれを決定出来ること、だと言えると思う。そして"何の束縛も受けずに"という部分が不自由の定義の②や②' を要請する大事な部分となっているので、なんとなく頭に入れておいてほしい。
ここからは定義の各条件について、それらを適用できるような具体例を挙げていくことで、それぞれの条件が意味するところやなぜその条件が必要であるかについて説明する。
まず、①についての具体例を挙げると、自分が持つ遺伝子や先天的な選好、つまり自由意志の初期値が考えられる。これらは明らかに自分で決定できない(すなわち、自分が自分として生まれることは自分で決定できないということ)ので、定義①から、これらは自分にとって不自由なものだと言える。
また、自分が全く関与できない意思決定、例えば自分が認識していない外国の学校で行われているクラス委員の決定や、5分前にすれ違った人が夕飯に何を食べるかの決定などは、それらを自分の自由意志で決定することはできないので、自分にとって不自由なものだと言える。
他にも、さまざまな物体の位置や運動、他の自由意志の存在など、環境に含まれるものの多くは自分が決定できないものであるので、それらは自分にとって不自由なものである、ということは直観的に納得してもらえると思う。
また、①’、つまりその変化の過程を自分で決定できないような変化の具体例としては、入ったことのないビルに置かれている観葉植物の成長や、全く関わりのない人間が持っている自由意志の変化などが考えられる。これらは明らかにその変化の過程と変化する前のものを自分で決定する事ができないので、変化した後のものについても自分にとって不自由だという事が出来る。
次に、②の場合に当てはまる具体例を挙げると、一つ目として、その決定の過程を偶然に任せているような意思決定が考えられる。例えば、占いやルーレットなどに基づいて自分の行動を決定する場合、その決定は自分にとって不自由だと言えるだろう。ここで注意しておきたいのが、ある決定について、その結果に自分が納得しているからといってその決定が自分にとって不自由ではないとは限らない、ということだ。上の例に当てはめると、占いに合わせて行動した結果人生が上手くいき、後でその決定や当時の行動に自分で納得していたとしても、決定の過程が自分にとって不自由である以上、それらは全て自分にとって不自由なものであるということが定義から分かる。
そしてもう一つのパターンとして、自分にとって不自由な情報と計算則に基づいて意思決定を行う場合も、決定の過程に関係する情報や計算則が不自由なものであるため、その意思決定は不自由なものであるといえる。そう考えても良い理由について以下で詳しく議論する。
まず、 Chinese Room のような状況を考える。つまり、自分にとって不自由な環境(=部屋の中)で、自分にとって不自由なルール(=計算則)に従って、自分にとって不自由な形で与えられた情報について何らかの問題を解くことを考える。この状況では、問題を解くための計算を行うと決定するのは自分の自由意志であっても、どのような解が得られるかを自分で決定することはできない。なぜなら、計算結果である解は計算に用いる情報と計算則によって決定されるが、それらは全て自分にとって不自由なものであるからだ。自分が解く問題と、問題を解く際の計算の過程が両方とも自分にとって不自由である以上、得られる解も自分にとって不自由なものとなる。なお、ここでは与えられた情報や計算則のうちのどれを用いるか、またどのように用いるか、ということは自分で決定できない不自由なものであることを暗に仮定しているが、自由意志を用いた決定について考える際にはこの仮定が必要ないということを後で議論する(あるいは計算においてどの情報や計算則を用いるかも別の計算則のうちに含まれていると考えても良いと思う)。
上で考えた状況の具体例として、a?b=a^2-3abという計算則が与えられたときに3?5という問題を解くことを考える。
与えられた計算則を用いると3?5=3^2-3*3*5=-36という答えは簡単に出てくるが、ここで重要なのは問題を解くために用いた計算則と与えられた情報(ここでは問題3?5)はどちらも自分で決定することができない不自由なものであり、なおかつそれらが与えられた時点でどのような解が得られるかはすでに決定されている、ということだ。つまりどのような解が得られるか、ということに関係する全ての要素が自分にとって不自由であるので、得られた解についても、それが自分で決定することの出来ないものであると言えて、不自由の定義①から、その解は自分にとって不自由なものとなる。
そして上の議論を自分にとって不自由な自由意志が行う様々な決定に応用する、というのが今回の証明で最も大事なところになるが、Chinese Roomの例で考えていた仮定のいくつかは自由意志が実際に行う決定には当てはまらないものであるため、それらをどのように考えるか、ということも含めて以下で詳しく説明する。
まず先ほど定義したように、自由意志は自分が認識している情報に基づいて何らかの計算を行うことで自分の行動を決定する関数のようなものであるので、自由意志を用いた決定では自由意志自体がその決定に関係する計算則となる。また、情報についても同様で、自由意志の定義において自分が持つ情報も自由意志に含めるとしたので、決定に関係する情報は全て決定を行う自由意志に含まれていると考えて良い。これらを踏まえて、自分にとって不自由な自由意志を用いて何らかの決定を行うことを考える。
初めに、上の注意と自由意志が不自由であることから、決定に関係する計算則と情報は全て自分にとって不自由なものである。ここで Chinese Roomの例と大きく異なるところは、自由意志を用いた決定では、自分がどの計算則と情報を用いて、つまりどのような計算過程を経て決定を行うか、ということを自分の自由意志によって決定できる、というところだ。
先ほどは、決定における計算過程がどのように決定されるか、ということが自分にとって不自由であると暗に仮定していたが、直ちにこのことを仮定するのは明らかに現実とそぐわないため、ひとまずこの仮定は抜きにして考える。
しかしその場合においても計算過程は自分にとって不自由に決定されると考えて良い。そのことを説明するために、自由意志を用いた決定がどのように行われるかを考える。
自由意志を用いた決定では、その決定に用いられる情報と計算則が、自由意志が行う認識によって決定される。例えば自分がお腹を空かせているということを認識した人は、冷蔵庫に入っている食べ物の情報や地震が持つ食べたいものの選好などを用いて何を食べるかを決定するだろう。この例では、「自分はお腹が空いている」という認識によって、自分が何を食べるかを決定する、ということが決定されて、実際に何を食べるかということを、自分が持っている情報と計算則を用いて決定している。
上の例のように、自由意志を用いた決定では、自分が持っている様々な情報や計算則からどれを用いてどのような決定を行うかということが認識によって決定されるが、この時重要となるのが、その認識を行う計算則と情報も自由意志に含まれるということだ。つまり、自分にとって不自由な自由意志を用いて何らかの決定を行うときは、その決定の計算過程も自分にとって不自由な自由意志、つまり自分にとって不自由な情報と計算則によって決定されるため、計算過程の決定について先ほどの議論を適用することで、どの計算過程を用いるかということが自分にとって不自由だということが出来る。そして、自由意志が不自由であることから決定された計算則と情報は全て自分にとって不自由なものとなるので、先ほどの議論と合わせて自由意志を用いた決定においてもその計算過程が自分にとって不自由であることが示せた。さらに、計算過程と用いられる計算則、情報の全てが自分にとって不自由であることから、計算結果を自分で決定できないことも言えて、このことと不自由の定義①から、自分にとって不自由な自由意志を用いた決定が自分にとって不自由なものとなることが示せた。
上記の議論によって、たとえ自由意志によって決定されたものであっても、自分にとって不自由なものが存在し得る、ということを示すことが出来た。
上にも書いたように、ここの議論が今回の証明で最も大事なところとなる。おそらく、自分の自由意志に基づいて行われる決定というのは自分にとって自由なものであるはずだ、という考えが一般的だと思うが、不自由の定義やChinese Room の思考実験を用いた議論によって、実は自分で決定したことであっても自分にとって自由ではないことがあり得るというのが今回の主張の根幹であり、この後の議論は数学を用いながら自由意志が不自由に変化していくことをある程度厳密に示しているだけなので、この証明の本質的な部分ではない。それゆえに、最も考察の余地がある部分もここだと思っている。
また②'、つまりあるものAの変化について考えるときも同様で、変化する前のものと変化の過程が両方とも自分にとって不自由であるならば、変化した後のものも不自由だということが出来る。これは②の議論について、決定の過程を変化の過程に、決定に関係する情報と計算則を変化する前のものとして読み替えてもらうと同じ議論ができるので詳細は割愛する。
②'の具体例としては折り紙を折ることが考えられる。
自分にとって不自由な方法で用意された紙(=変化する前のもの)を、自分にとって不自由な方法で決定された折り方(=変化の過程)で折っていくと、出来上がった折り紙は、その形を自分で決定できない、不自由な変化をしたものであるとすることが出来る。
上の例では折り紙を自分の手で変化させているが、自分とは関係のない環境や他の自由意志がもたらす変化についても、①'もしくは②'を満たすならば、変化した後のものは自分にとって不自由なものだとすることが出来る。
最後に二つ注意がある。
一つ目がものの存在や自由意志が行う思考、決定が確率的に表される場合について。このことについて少し考えると、それらは二通りに分類することができて、その確率に基づいて最終的に何が決定されるかを決定する変数が存在する場合と、そうでない場合に分けられる。前者では、その変数は自由意志もしくは環境に含まれているので、自由意志と環境が不自由なものであれば確率的に決定されたものも不自由であることが言える。後者についてはこの後の真の偶然についての定理で詳しく考えているのでそちらを参考にしてほしいが、結局どちらの場合でも不自由の定義の議論を行う上で特に問題がないということを主張している。
二つ目の注意が不自由の定義②と②'について。
②や②'を認めても良いとした議論において、最終的に不自由の定義①や①'を用いてそれらが不自由であることを示しているので、②と②'は実は定義ではなく定理なのではないか、という気がしている。ひとまずは定義として書いたままnoteを公開するが、気が向いたときに修正するかもしれない。
以下の証明では上の議論を適用することによって、自由意志が自分にとって不自由に変化していく、ということを示していく。
証明に必要な定理と仮定について
この章では、今回の証明で用いるさまざまな定理を、上の言葉の定義や既に証明した別の定理などを用いて証明する。また、自由意志と環境の初期値についても考察する。
ここで用いられる定理や仮定は、それを導入しても議論が現実と乖離しない、というのが前提にあるので、もしその点で疑問を覚えた人がいたら話し合いたい。
定理1 : 変化する前の自由意志とその変化の過程、そして変化に関係する環境が全て不自由である自由意志の変化は、自分にとって不自由である
以下の証明では主に自由意志の変化について考えていくが、その際変化する前の自由意志と自由意志が変化する過程、そしてその変化に関係する環境が全て不自由ならば、変化した後の自由意志も不自由である、ということを主張するのがこの定理である。
この主張については先ほどの不自由の定義のところで少し議論したが、改めて定理という形で示すことでこの後の証明で使いやすいようにしておく。
定理1は今証明で最も大事な定理の一つであり、この後の議論においても頻繁に登場するため、この定理が意味するところはなんとなくでも良いので覚えておいてほしい。
なお、ここでいう”変化に関係する環境”とは、自分が置かれている物理的、精神的、社会的な状況や行動をする際の制約条件など様々なものが含まれているが、以降の証明ではこれら環境と変化する前の自由意志が不自由であることをまとめて仮定するので、それらの具体的性質はあまり重要でない。
それでは証明に移る。
証明
仮定から、変化する前の自由意志と変化の過程、そして自由意志の変化に関係する環境が全て不自由であるので、不自由の定義の②'を満たしていることから、変化した後の自由意志も自分にとって不自由なものだと言える。これで定理の主張は示された。
この定理は非常に強い仮定が置かれているので、証明自体はごく短いものとなっている。短すぎて何を言いたいのかよくわからないと感じた人は、不自由の定義や最初に置かれた仮定などを見返してほしい。
以下の議論では、自由意志の変化をいくつかのパターンに分類して、それぞれに対してその変化の過程や変化する前の自由意志、変化に関係する環境の全てが不自由であることを示してこの定理を用いる、というのがこの後の基本的な流れとなる。
定理2 : 自由意志と環境が不自由ならば、変化の過程が認識以外のものである自由意志の変化は、全て自分にとって不自由である
ここでいう「認識による自由意志の変化」とは、認識の定義の部分で書いたように、自分が持っている情報について思考することで自由意志を変化させることを指し、具体例としては失敗したことについて反省することで同じ失敗を犯さないようにすることや、ある問題について思考しそれを理解すること、あるいは単に視覚などを通して外部から何らかの情報を得ること、などが考えられる。
そして上記以外の自由意志の変化とは、自分が行う認識を介さない自由意志の変化であり、例えば体調やメンタル面での好不調、コンサータなどの医薬品の効果による、物理的な肉体の変化に基づく自由意志の変化や、あるいは(存在するかどうかはわからないが)神からの天啓による直接的な自由意志の変化などが考えられる。なお、例に挙げたような自由意志の変化は、自由意志が変化していることは認識できたとしても、自由意志による認識以外のものが変化の過程となっているという点で、認識による自由意志の変化とは区別される。
このような、自分の認識を介さない自由意志の変化が自分にとって不自由であることを以下に示す。
証明は以下。
証明
まず仮定から、変化する前の自由意志と変化に関係する環境が自分にとって不自由だということが言える。
次に、変化の過程が自分にとって不自由であることを示す。
ここで決定の定義を思い出すと、何かを決定する際には自分の認識を用いる必要があるが、上述したようにこの定理で扱う自由意志の変化は、その変化の過程が認識以外のものであるため、自由意志をどのように変化させるかについて認識を用いた決定を行うことが出来ない。このことと不自由の定義①から、変化の過程が認識以外のものによる自由意志の変化は、自由意志がどのように変化するかが、つまり自由意志の変化の過程が自分にとって不自由なものであると示せた。
そして上の議論と仮定より、変化する前の自由意志とその変化の過程、そして変化に関係する環境の全てが自分にとって不自由であるので、定理1から、変化した後の自由意志も自分にとって不自由である事が示せた。
これで定理を証明することが出来た。
一応注意しておくと、例に挙げた物理的な肉体の変化によって起こる自由意志の変化は、その原因となる自分の行動を自分で決定しているから、そこに不自由でない可能性があるのではないか、と考える人がいるかもしれない。具体例としては、薬を飲んだことで自分の自由意志が変化した場合、薬を飲むという決定は自分の自由意志で行なっているため不自由ではないのではないか、などという疑問が考えられる。
しかしそれについては、この定理で考えているのは「変化の過程が自分の認識以外によるものである自由意志の変化」であるため、それ以前の自分の決定とその行動の不自由さは下にある別の定理(自由意志が環境に与える変化が不自由であることを示す定理)で示される、ということで説明がつく。つまり、上の例で考えると、薬を飲むという決定が自分にとって不自由であることが先に示されて、その後にそれによる自由意志の変化が示される、という形になる(上の議論では前半部分が不自由であることを仮定してから証明を行っているため、定理の真偽を考える上では特に問題がない)。
事実: 自由意志と環境の初期値は自分にとって不自由である
ここで、自由意志の初期値とは主に遺伝的な脳の性質や性格、先天的な選好などを指し、自由意志の初期値が決定される以前では、その自由意志は存在しないとする。また、自由意志の初期値が決定された瞬間をt=0として、環境の初期値とはt=0における自由意志の初期値以外の全てを指す。
以下では自由意志が不自由に変化していくことを示していくが、その変化の大元となる自由意志の初期値と、自由意志の変化に関係してくる環境の初期値が両方とも不自由である、つまり自分で決定することができない、というのがここでの主張であり、これは不自由の定義①から導かれる。
まず、自由意志の初期値が自分にとって不自由であることについて、背理法を用いて示す。
初めに、自由意志の初期値を自分で決定できると仮定する。このとき、決定の定義から、その決定は自分の自由意志によって行われるが、自由意志の初期値が決定される以前から自分の自由意志が存在するのは初期値の定義に矛盾する。よって背理法より、自由意志の初期値は自分で決定することができず、このことと不自由の定義①から、自由意志の初期値は自分にとって不自由なものであることが示せた。
同様に、環境の初期値が不自由であることについても背理法を用いて示す。
まず、環境の初期値を自分で決定できると仮定する。このとき、決定の定義から、その決定は自分の自由意志によって行われるが、環境の初期値は自由意志の初期値が決定された瞬間の環境であり、これを自由意志が決定するためには自由意志の初期値が決定される以前から自由意志が存在している必要があるが、このことは自由意志の初期値の定義に矛盾する。よって背理法から、環境の初期値を自分で決定できないことが言えて、このことと不自由の定義①から、環境の初期値も自分にとって不自由であることが示せた。
ちなみに、自由意志の初期値はどこからか、という疑問もあると思うが、どのようなものであれ自由意志の変化は全て自分にとって不自由なものである、というのがこの証明の結論なので、その点はあまり重要ではないと考えている。
定理3: 真の偶然は自分にとって不自由である
ここでいう真の偶然とは、かつての決定論が敗北を喫した量子力学的な偶然であり、九鬼修造がいうところの理由的消極的偶然に当たる。今回の証明ではこの偶然が存在していたとしても結論に影響がないことを示すために、あらゆる変化や決定(自由意志による決定も含む)、ものの存在などに真の偶然が関係しうる、ということを仮定する。
この真の偶然とは、その偶然を決定する変数の存在しない偶然であり、その定義上必ず自分にとって不自由なものとなる(自分で決定できる偶然は真の偶然とは言えないため)。そのため、あるものの状態やその変化などに真の偶然が関係していたとしても、それが不自由であることを示す上では影響がないということが直感的にわかると思うが、一応証明をしておく。
詳細な場合分けはあまり重要ではないと感じるので、真の偶然によってあるものの変化の過程が決定される、という状況を例として考える。
証明
まず、先ほどの証明と同じように、変化する前のもの(自由意志や環境など)が自分にとって不自由であると仮定する。次に、その変化の過程は真の偶然の定義から、自分で決定することが出来ない不自由なものだということが言える。すると、不自由の定義の②'から、変化した後のものが不自由だということが言えるので、真の偶然による変化は自分にとって不自由であることが言える。
同じようなことが真の偶然が関係する全ての変化やものの状態について言えるので、以下の証明では一々真の偶然の影響を考えないものとする。
定理4: 自由意志と環境が不自由ならば、自由意志が環境に与える変化も不自由なものとなる
これは、自由意志と環境が不自由であると仮定をしたときに、自由意志が環境に与える変化が不自由であること、を示す定理となる。
僕たちが環境に与える変化の具体例としては、手で触れることでものの位置を変えること、文章を書くこと、人にアドバイスをしてその人の行動を変えること (他人の自由意志を変化させること) 、あるいは自分の行動によって置かれている環境が変化していくことなどが挙げられるが、そういった変化が全て自分にとって不自由である、ということを主張するのがこの定理となる。
これまではほとんど自由意志の変化にのみ注目していたが、定理1を用いるためには環境が不自由であることを示しておく必要があり、これはそのための定理だと考えてもらって良い。証明は以下。
証明
まず仮定から、変化を与える前の自由意志と環境は不自由である。すると、環境が変化する過程となる僕たちの行動について、それを決定する自由意志と、その決定に関係する(自由意志に含まれた)情報や環境が全て不自由であると言えるので、不自由の定義の②から、環境が変化する過程となる僕たちの行動は不自由なものだと言える。すると、変化する前の環境と、それを変化させる過程が両方とも不自由であると言えるので、不自由の定義の②'から、変化した後の環境も自分にとって不自由であることが言える。以上より、仮定の下で自由意志が環境に与える変化が不自由であることが示された。
なお、証明では環境に変化を与える行動を自由意志が決定しているが、これが偶然による変化であったり、あるいはある環境が他の環境に与える変化であったりしても同様に、その変化は自分にとって不自由であることが言える。
この定理はつまり、自由意志と環境が不自由ならば、自由意志によって決定される自分の行動は全て不自由なものだ、ということを主張していて、不自由の定義が認められるならば納得のいく定理だと思う。
定理5: 自由意志と環境が不自由ならば、認識による自由意志の変化は自分にとって不自由である
初めに言葉の意味を確認しておくと、認識による自由意志の変化とは、その変化の過程が認識によるものであるような自由意志の変化であり、今回の証明では変化の過程が認識によるものかそうでないかで自由意志の変化を二つに分けている。そして後者については先ほどの定理2でその変化が不自由であることを示したので、この定理5と合わせて自由意志に起こるすべての変化が自分にとって不自由であることを示すことが出来る。
今までと同様に、この定理においても変化する前の自由意志と環境がそれぞれ不自由であることをあらかじめ仮定しておく。
それでは早速証明に移るが、そのためにまず以下の補題を示す。
補題1: 自由意志と環境が不自由ならば、自由意志によって行われる認識も自分にとって不自由なものとなる
この主張は不自由の定義②ですでに議論したが、改めて補題という形で示しておく。
証明は以下。
補題の証明
まず仮定から、その認識を行う自由意志と環境は不自由である。この時、自由意志と環境の定義から、自由意志が認識を行う際に用いられる計算則や情報、そして認識に関係する環境の全てが不自由であると言えるので、不自由の定義で行なった議論と合わせて、認識の過程が自分にとって不自由なものだと言える。すると不自由の定義②から、行われる認識も自分にとって不自由なものとなる。
これで補題が示された。
この補題と不自由の定義②を用いることで定理5をスムーズに示す事が出来る。
証明は以下。
定理5の証明
まず仮定から、変化する前の自由意志と環境が共に不自由である。すると補題より、自由意志の変化の過程である認識が自分にとって不自由なものとなる。このことと変化する前の自由意志と環境が全て不自由であることから、定理1より、変化した後の自由意志も自分にとって不自由だと示せた。
この定理を用いることができる具体例としては、認識によって環境や自由意志から新たな情報を獲得して、それによって自由意志が変化することや、推論や思考を通して自分の自由意志に含まれる計算則を直接変化させること(平たく言うと反省)などが考えられる。
特に前者については、不自由の定義での議論にもあったように、決定に関係する情報が自分にとって不自由であることを示すのは不自由の定義②や②'を用いる上で重要となる。ただし、自由意志の定義にも書いたように、認識によって得られた情報は自由意志に含まれるので、この後の証明では情報という単語はあまり出てこず、それらは自由意志に内包されているということに注意しておく。
なお今回の証明では、自由意志の変化を認識によって起こるものとそれ以外のものの二つに分けているが、この分け方に疑問を感じる人がいたらぜひ一緒に議論したいと思う。
上記の定理や仮定を踏まえた上で、いよいよ自由意志が不自由であることを証明していこうと思う。
自由意志が不自由であることの証明
まず証明の大まかな流れを書いておくと、任意の時間tにおける自由意志をf(t)として、任意の時間間隔aについて、f(t)→f(t+a)のように自由意志の変化を考える。この時、時間tにおいてf(t)やその他の環境は全て自分にとって不自由なものだと仮定する。この条件のもとで任意のtとaについて自由意志が不自由に変化することを証明することができれば、自由意志と環境の初期値が不自由であること、つまりf(0)などが不自由であることと合わせて、任意の時間において自由意志が不自由であることが言える。
証明前の注意として、ここでは自由意志が変化する過程を二つのパターンに分けて考える(具体的には、変化にかかる時間に下限がある場合とそうでない場合)が、これは証明上必要だからというわけではなくて、自由意志が具体的にどのような過程を経て変化するか、ということについて僕が十分に考察ができていないことが原因である。一応考えられる全てのパターンについて自由意志が不自由であることの証明を行うので、結論には影響が出ないと考えているが、もし考察が不完全なパターンなどを思いついた人がいたらいつでも一緒に議論したいと思う。
また、今回の証明ではほとんど全てのパターンについて数学的帰納法や開集合や閉集合の数学的な記法を用いるので、それらについてなんとなく思い出しておいてもらえると嬉しい。
それでは早速証明を行っていく。
自由意志の変化にかかる時間の下限が正である場合
初めに、自由意志の変化にある程度時間がかかる場合を考える。
具体的には、自由意志の変化にかかる時間を実数の集合で考えたときに、その下限をb>0として、全ての自由意志の変化はその完了までにb時間以上かかるものだとする。(このbは生物学的な、あるいは物理的な制約で定まるものとすれば、bを考えることにある程度意味を持たせられると思う。)
上では自由意志の変化を、認識によるものとそれ以外のものに二分したが、ここでは自由意志を変化させるものをまとめて作用と呼び、作用が起こってから自由意志が変化するまでの時間間隔で場合分けを行っている。
ここで、新しく導入した作用という概念について、後の証明で便利に使える定理を一つ示しておく。
定理6:自由意志と環境が不自由ならば、作用による自由意志の変化は自分にとって不自由である
この定理の主張は定理2と定理5をまとめているだけなのだが、定理6を示しておくことでこの後の証明での煩雑な場合分けを簡単にする事が出来るので、ここで証明する。
証明は以下。
証明
まず仮定から、変化する前の自由意志と環境が共に自分にとって不自由である。
この時、考えたい作用について次のような場合分けを行う。
①自由意志を変化させる作用が認識である場合
②自由意志を変化させる作用が認識以外のものである場合
①の時、自由意志と環境が共に不自由であることと定理5から、作用による自由意志の変化が自分にとって不自由であることが言える。
②の時、自由意志と環境が共に不自由であることと定理2から、作用による自由意志の変化が自分にとって不自由であることが言える。
これで、すべての場合について作用による自由意志の変化が不自由である事が言えたので、定理の主張が示された。
改めて書くように、この定理は証明での場合分けや曖昧な部分を減らせる便利なものなのだが、その主張は定理2と定理5をまとめているだけなので、疑問に感じる人がいたら定理2や定理5を見返して欲しい。
証明のイメージを掴むためには適切な具体例が重要であると思うので、自由意志の変化にある程度時間がかかるような作用について具体例を挙げると、認識の場合は、自分の過去の行動についてじっくりと反省することで同じ失敗を犯さないように行動基準を変化させることなどが考えられる。この例では、記憶を思い出すなどして反省し始めたときに作用が始まって、反省中の様々な認識(思考や想起など)が変化の過程となり、何らかの改善点が得られたところで自由意志が変化したと考えられる。なお、この後の注意にも書いているが、自由意志が連続的に変化する場合は別で証明するので、上の具体例で考えている自由意志の変化はある程度の時間をかけて、一回の作用に対して一度だけ変化するようなものとして考えている。
認識以外のものによる作用についてはあまり具体例が思いつかないが、たとえそのような作用が存在しないとしても証明の真偽には影響がない。
証明に移る前に、この証明において必要な仮定と、その仮定をおいても良い理由について説明する。
まず、「作用によって自由意志が変化している最中は、その作用によって自由意志が変化することはない」ということを仮定する。つまりc時間かかる作用が時間tで発生したとすると、区間[t,t+c)においてその作用による自由意志の変化は起こらない、ということを仮定する。もっと言うと、一つの作用では自由意志は一回しか変化しないということを仮定する。この仮定にはいくつか注意が必要なので以下に挙げる。
まず「一つの作用において段階的に自由意志が変化する場合はどう考えるのか」ということについて。段階的に自由意志が変化していくとは、ある情報に対して時間をかけて思考することで徐々に理解を深めていくことなどが具体例として挙げられるが、この場合は自由意志が変化していく段階ごとに作用を分割して考えれば良い。先ほどの例で考えると、その作用が始まってからc/2時間とc時間でそれぞれ一回ずつ自由意志が変化するような作用については、c/2時間でその作用を分割することで、自由意志が一回ずつ変化する作用二つに分けることができる。
そして上のように作用の分割を考えると当然出てくる疑問として、「作用を限りなく分割していった場合、つまり自由意志を連続的に変化させるような作用についてはどのように考えるのか」というのがあると思うが、それについてはこの後の「自由意思の変化にかかる時間の下限が0である場合」で考える。そのため、作用にかかる時間に正の下限が存在する場合を考えている下の証明では、全ての作用を適切に分割することで、作用が行われている間はその作用による自由意志の変化は起こらない、ということを仮定しても良いと考えることができる。
また、二つ以上の作用が同時に起こっている場合はどのように考えるのか、ということについては後で証明する。
いよいよ証明に移るが、その前に、自由意志の変化にかかる時間に下限bが存在すると考えると、時間[t,t+a]の間で起こる作用の回数は高々a/b回と表せるので、作用の集合Aは可算となることにも注意しておく。
このような場合では、Aのうちの任意の元Anについて、Anによる自由意志の変化が不自由であることを示せば良い。
証明
まず、任意の時間tと任意の時間間隔aをとり、時間tにおいて自由意志と環境が共に不自由であると仮定する。また、[t,t+a]の間で起こる作用の回数をm(m<=a/b)として、[t,t+a]の間で起こる作用をt に近い方から順にA1,A2,,,Amとする。また、作用Aiが起こる時間をそれぞれtiとする。この時、各作用Aiにかかる時間をBiとすると、ti+Bi<t(i+1) (i=1,2,,,,m-1)が成り立ち、また、tm+Bm<t+aも成り立つ。
このように作用Aiを考えたときに、1<=n<=mを満たす任意の整数nについて、tnにおいて自由意志と環境が不自由であることを数学的帰納法で示す。
まず、n=1の時、つまりt1で自由意志と環境が共に不自由であることを示す。
ここで、A1の取り方から、tからt1の間には自由意志を変化させるような作用は起こらないことに注意しておく。すると、作用の定義から、[t,t1]で自由意志の変化が起こらず、時間tで自由意志が不自由であるという仮定と合わせて、[t,t1]で自由意志が常に不自由であることが分かる。このことと時間tで環境が不自由であるという仮定から、定理4より、[t,t1]で環境も常に不自由に変化していくことが示せる。
以上の議論から、時間t1で自由意志と環境が共に不自由である事が示せた。
次に、tk(k=1,2,3,,,m-1)で自由意志と環境が不自由であることを仮定して、t(k+1)でも自由意志と環境が不自由であることを示す。
まず仮定から、時間tkで自由意志と環境が自分にとって不自由なものである。
次に、作用Akが始まってからAkによって自由意志が変化するまでにかかる時間をBkとして(Bk>b かつ tk+Bk<t(k+1) )、区間 [tk,t(k+1)] を [tk,tk+Bk] ,[tk+Bk,t(k+1)]に分割し、それぞれの区間で自由意志と環境が不自由に変化していくことを示す。
まず区間[tk,tk+Bk]について、一つの作用では自由意志は一度しか変化しないという仮定とAk,A(k+1)の取り方から、[tk,tk+Bk)では自由意志が変化しない事、つまり[tk,tk+Bk)で自由意志が常に不自由であることが分かる。このことと、tkで自由意志と環境が共に不自由であるという仮定から、定理4より、[tk,tk+Bk)で環境も常に不自由に変化していくことが言える。そして[tk,tk+Bk)で自由意志と環境が常に不自由であることに定理6を適用することで、作用Akによって引き起こされた時間tk+Bkにおける自由意志の変化も、自分にとって不自由なものだという事が示せる。以上より[tk,tk+Bk]で自由意志が常に不自由である事が示せて、同様に[tk,tk+Bk]で環境も常に不自由である事が示せた。
次に区間[tk+Bk,t(k+1)]について、上の議論から時間tk+Bkにおいて自由意志と環境が共に不自由である事がわかっている。
次に、Ak,A(k+1)の取り方から、区間[tk+Bk,t(k+1))で自由意志を変化させる作用が起こらないことが言えるので、[tk+Bk,t(k+1))で自由意志が常に不自由である事が分かる。このことと、時間tk+Bkにおいて環境が不自由であることから、定理4を用いて、[tk+Bk,t(k+1))で環境が常に不自由に変化していく事が示せる。最後に、時間t(k+1)で作用A(k+1)が起こるが、自由意志の変化にかかる時間に下限が存在することから、時間t(k+1)では自由意志が変化しないことが示せて、同様に環境も不自由に変化する事が分かる。
以上の議論から、[tk+Bk,t(k+1)]においても自由意志と環境は常に不自由である事が示せた。
そして上の二つの議論から、区間 [tk,t(k+1)]で自由意志と環境が常に不自由である事が示せたので、t(k+1)でも自由意志と環境が不自由である事が示せた。
よって、数学的帰納法より、1<=n<=mを満たす任意の整数nについて、tnにおいて自由意志と環境が不自由であることが示せた。
最後に、[tm+Bm,t+a]について考えると、Amの取り方から、[tm+Bm,t+a]で自由意志を変化させる作用は起こらないので、時間tm+Bmで自由意志が不自由であることと合わせて、t+aでも自由意志が常に不自由である事が言える。そのことと時間tm+Bmで環境が不自由であることから、定理4より、[tm+Bm,t+a]で環境も常に不自由に変化していく事が言えるので、これらを合わせて時間t+aでも自由意志と環境が不自由である事が示せた。
以上の議論から任意のtとaについて、時間tで自由意志と環境が不自由であるならば、[t,t+a]で自由意志と環境が常に不自由に変化し、t+aでも自由意志と環境が共に不自由である事が示せた。
自由意志の変化にかかる時間の下限が0である場合
次に、自由意志の変化にかかる時間に下限が0である場合を考える。自由意志による活動は全て脳内の電気信号によって行われるという考え方のもとでは、自由意志の変化に全く時間がかからないという仮定は現実とそぐわないかもしれないが、実際にどのような過程を経て自由意志が変化するかが明らかになっていない以上、自由意志の変化にかかる時間に下限がない場合も考えておいた方が良いだろう。
ただし、自由意志の変化にかかる時間が負の値となるのは明らかに現実と合わないので、先ほどの下限bについて、b=0としてその時の自由意志の変化を考える。具体的には、自由意志を変化させる作用について、その変化にかかる時間が微小時間dtであるような自由意志の変化を考えて、その場合でも自由意志の変化は自分にとって不自由であることを示す。
まず、以下の定理を示す。
定理7:自由意志と環境が不自由ならば、 自由意志が作用によって連続的に変化する場合でも、その変化は自分にとって不自由なものとなる
この定理は、ある区間[d,e](ただし時間dにおいて自由意志と環境は不自由であると仮定する)において自由意志が作用によって連続的に変化していく場合、その変化は自分にとって不自由であることを示すものである。連続的に変化する、というのは作用や自由意志の変化にかかる時間が限りなく小さい場合の自由意志の変化であり、以下では微小時間dtを用いて表す。
注意しておきたいこととして、ここでいう連続的とは、数学での関数の連続性とは異なるものだ、というのがある。改訂前の版では(僕の数学力が致命的に足りなかったので)関数の連続性とのアナロジーによって自由意志が連続的に変化する場合を考えていたが、改めて考えてみると、この議論はおかしかった事がわかる。そもそも、関数の連続性とは関数がある点において飛び飛びに変化する事がないような性質のことであるが、今回の証明では、一度の作用で自由意志がどの程度変化するかについては考えていない。それどころか今回の自由意志の定義では、その変化の性質や程度について考えるのは不可能であるので、そういう意味でも関数の連続性についての議論を適用するのは正しくなかった。反対に、一度の作用でどれだけ(曖昧な表現だが)劇的に自由意志が変化したとしても、その作用について定理6が適用できるならば、その自由意志の変化は自分にとって不自由なものである、ということもできる。自由意志が具体的にどのように変化するかについて考えずにこの辺りの議論ができるのはこの証明に良い点だと思う。
上の注意を踏まえて、自由意志が連続的に変化することを証明上どのように扱うかというと、微小時間dtについて[t,t+dt]で自由意志が変化させることを考え、このdtを取れるかどうかで、先ほどの自由意志にかかる時間に下限がある場合と区別する。
また、ある点Tにおいて、[T,T+dt]で自由意志が不自由に変化するならば、自由意志は点Tで連続的に変化する、とする。
以下の証明では、ある区間内の全ての点について、その点で自由意志が連続的に不自由に変化することを示すことで、その区間において自由意志が連続的に、なおかつ不自由に変化することを示す。
証明は以下。
証明
まず、任意の時間 d,e (d<e)をとり、区間 [d,e]について考える。このとき、時間dにおいて自由意志と環境は不自由であると仮定する。そして、区間[d,e]内の任意の点Tをとり、Tにおいて自由意志と環境が不自由であると仮定する。また、時間Tで何らかの作用が起こることも仮定する。
上記の仮定の下で微小時間dtをとって、[T,T+dt] で自由意志が不自由に変化することを示す。
ここで、前項(自由意志の変化にかかる時間に下限がある場合)と同じように、[T,T+dt]の作用の最中では自由意志は変化しない、つまり一つの作用について自由意志の変化が起こるのは一回だけであると仮定する。(もし[T,T+δ]中で自由意志が段階的に変化するならば、適切にdtを取り直せば良いだけであるので、この仮定をおいても問題ないことがわかる。)
すると、区間[T,T+dt]について、前項の 区間[tk,tk+Bk] についての議論を適用すると、同じ仮定(具体的には時間Tで自由意志と環境が共に不自由であるという仮定)がなされていることから、区間[T,T+dt]で自由意志が常に不自由であり、環境も常に不自由に変化していくことが分かる。このことと、dtの定義から、自由意志と環境は時間Tにおいて連続的に不自由に変化することが示せた。
今、Tは任意の点であったので、区間内の全ての点について同様のことが言えて、このことから区間[d,e]において自由意志が不自由に、なおかつ連続的に変化していくことが示せた。
上の証明では、区間内では自由意志が連続的に変化し続けること、つまり区間内に自由意志が変化しない隙間が存在しないことを暗に仮定している (任意の点Tで常に作用が起こると仮定している)が、これは適切に区間を分割すれば一般の区間にも適用できる仮定であると思う。もしくは、その作用によって自由意志が全く変化しないような作用を定義することでもこの問題を回避できると思う。
この定理を用いて、改めて自由意志の変化にかかる時間の下限が0である場合についても証明を行なっていく。
証明
まず、任意の時間tと時間間隔aをとり、時間tで自由意志と環境は不自由であると仮定する。次に、[t,t+a]を自由意志が連続的に変化するような区間に分割して、tに近い方から順に[t0,u0],[t1,u1]…とする。このように区間を定義したとき、任意の区間[ti,ui]について先ほどの定理を用いることでt→t+aで自由意志が不自由に変化していくことを示す。
初めに、時間t0で自由意志や環境が不自由であることを示す。
まず、仮定から時間tで自由意志と環境は共に不自由である。次に、t0の定義から[t,t0)では自由意志を変化させる作用は起こらないので、前項と同じ議論を行うことで[t,t0)間での自由意志や環境の変化は不自由であることが言えて、時間t0においても自由意志と環境は不自由であることが示せた。
次に、任意のk(k=0,1,2,,,)について、時間tk で自由意志と環境が不自由であるならば時間tk+1でも自由意志と環境が不自由であることを示す。
まず、[tk,uk]においては、tkで自由意志と環境が不自由であるという仮定と定理7から、自由意志と環境の変化が不自由である。また、適切に区間を分割していることから、[uk,tk+1)では作用による自由意志の変化は起こらない。そのため、前項の区間[tk+Bk,t(k+1)]での議論と同じように、[uk→tk+1]では自由意志と環境は不自由に変化していくことが言える。これらより、任意のkについて、tkで自由意志と環境が不自由であるならばtk+1でも自由意志と環境が不自由であることが示せた。このことと、t0で自由意志と環境が不自由であることから、分割した全ての区間で自由意志と環境が不自由に変化していくことが示せて、[t,t+a]で自由意志は不自由に変化することが示せた。(ただし、一番右端の区間ではtk+1を考えることができず場合分けをする必要があるが本質的な議論ではないので省略)
以上より、任意のtとaについて、時間tで自由意志と環境が不自由であるならば、[t,t+a]で自由意志と環境が不自由に変化していく事が示せたので、自由意志と環境の初期値が不自由であるという事実と合わせて、自由意志が自分にとって不自由なものである事が示せた。
これで基本的な証明は終了となるが、最後に二つ以上の作用が同時に起こっている場合について補足する。
まず、全ての可能性を網羅するために二つ以上と書いたが、適切な場合分けを用いることで、二つの作用が同時に起こっている場合のみを考えれば良い、つまり三つ以上のことを考えなくても良いことが分かる。このことは時間を軸とした一次元のグラフ(ある時間の幅をとった時に、その時間で作用が行われていることを表現したもの)を考えると理解しやすいと思う(気が向いたら書いた図を載せるかも)。
そこで、同時に起こっている二つの作用A,Bと、それらによる自由意志の変化について、以下の二つのパターンを考える。また、これまでの議論と同様に作用A,Bが始まった時間tにおいては自由意志と環境がそれぞれ不自由だったと仮定しておく。
作用AがBよりも早く完了する場合
このパターンでは、AがBよりも先に完了するため、作用Aによる自由意志の変化が作用Bにどのような影響を及ぼすかを考える必要がある。
まず、仮定より、A,Bが始まった時間ta,tbにおいて自由意志と環境がそれぞれ不自由である。このことと定理6から、作用Aによる自由意志の変化は自分にとって不自由であると言える。すると、作用Bの最中に、それを行なっている自由意志が変化していることになるが、実はこの変化は定理6を用いる上で、ひいては不自由の定義②について考察する上で何の影響もないことがわかる。どういうことかというと、作用Aによって変化する前の自由意志と、変化した後の自由意志をそれぞれ別のものだと考えて、二つの自由意志が作用Bに関係していると考えれば良い。これまでの議論では、自分の自由意志のみに注目していたため、複数の自由意志によって行われる決定については考えていなかったが、その決定や変化に関係するいくつかの自由意志が全て不自由であるならば、不自由の定義②の議論は問題なく用いることができる。(そもそも不自由の定義②は僕が勝手に行なったものなので、ここに納得できない人は一緒に議論したい)
すると、作用Bによる自由意志の変化について、環境と、それに関係する二つの自由意志が全て不自由であることが仮定や前述の議論から言えるので、定理6より作用Bによる自由意志の変化は不自由だということができる。
作用AとBが同時に完了する場合
この場合はさらに以下の二パターンに分ける事ができる。すなわち、A,Bが完了したときのそれぞれの自由意志の変化について、二つの間に何らかの相互作用がある場合と、そうではなくてA,Bが全く独立した作用である場合に分けられる。
まず後者については、それぞれ独立にその認識による自由意志の変化が不自由であることが仮定から言えるので、これまでの議論と全く変わらず自由意志の変化が不自由である事が言える。
次に、A,B間で何らかの相互作用がある場合についてだが、これも結局その相互作用の元となった作用A,Bとその時の環境が全て不自由であることから、変化の過程となる相互作用が自分にとって不自由であることが言えて、変化する前の自由意志が不自由であることと合わせて定理1を用いることで、相互作用による自由意志の変化も不自由である事が言える。
予想される疑問、反論などについて
ここでは、この証明について理解をさらに深めてもらうことを目的として、これまでの証明を読んだときに浮かんでくるかもしれない疑問や反論についてあらかじめ書いておく。僕が新しく思いついた場合や、質問や反論などがあった場合には都度追記する。
自由意志によって決定されていない(と思われる)行動について
反射や生理現象など、自分が意識することなく行われる行動というのはいくつかあるが、それらが自由意志や環境に与える変化はどうなるのか、という疑問を覚える人がいるかもしれないのでここで説明する。
まず、今回の証明における自由意志の定義は「何かについて思考し自分の行動を決定する関数のようなもの」であり、反射や生理現象は明らかに思考と関係なく決定されている行動であることを考えると、これらが自由意志と関係のない行動であると感じても不思議はない。ただし、反射や生理現象などが自由意志と関係なく決定される行動であったとしても、それらが自由意志や環境に与える変化は自分にとって不自由だということを以下に示す。
証明
まず、行動が行われる前の自由意志と環境は不自由であると仮定する。
定義から、ここで考える行動は自由意志によって決定されていないものである。すると、不自由の定義①から、その行動は自分にとって不自由なものだと言える。このことと、定理1や定理4から、この行動が自由意志や環境に与える変化はすべて自分にとって不自由なものだという事が示せる。
最後に
今回の証明を感覚的に分かりやすいよう短くまとめると、「時間tで自由意志と環境が不自由ならば時間tでの自由意志と環境の変化は自分にとって不自由である、ということを任意の点で示している」、ということになって、途中で証明した定理や数学的手法は全てこれらを少しでも厳密に議論するために用いられている。
そもそも今回の証明は、現実での自由意志や環境の変化について、それらが不自由に変化していくことを議論するための定義、原理の確認と、その定義や原理を実際に用いて証明を進めていく2段階に分かれていて、後者で行われいてる議論は実はあまり本質的でないと思っていて(それでも僕の数学力的に不安はあるんだけど)、むしろ前半の定義の部分(特に不自由の定義の②)に「実際に自由意志が不自由かどうか」の本質的な議論の種があると思うので疑問を覚えた人などは参考にしてほしい。そもそも僕の考え方自体が「自由意志は不自由であるべきだ」という思想に引っ張られていて、正しい定義や議論ができていない可能性があるということを頭に入れておいてほしい。
自由意志が不自由だとするとどのようなことが考えられるかについてはまた今度書くかもしれないが、少しだけ書くと、自由意志が不自由、つまり自分で決定できないものであることから、自分が自分であることの理由がなくなるので、あらゆる人の全ての行動に責任を求める事ができなくなると思う。
といったところで今回のnoteは以上になります。何か議論したい事がある人はコメントもしくは僕のTwitterアカウントまで来てくれると嬉しいです。
ちなみにタイトルはエロゲの続編のイメージ。増補改訂版は好きな動画投稿者さんリスペクトです。