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不自由すぎるよ自由意志(じゅいし)ちゃん!改訂版


はじめに

今回は自由意志の不自由さを、数学的帰納法を用いて証明していこうと思う。具体的には自由意志をA_n、自身を取り巻く環境をB_mという数列として見て、それらに数学的帰納法を用いることによって各項A_i,B_jが不自由であることを示す。

 まず、ここでいう自由意志とは、人間が何かについて意思決定をする際に(意識的であろうと無意識的であろうと)最終的な判断を下しているものであり、何かについての判断をしているかぎり全ての人が持っているものだ。そして自由意志が不自由というのは、自由意志を構成する各要素と、自由意志が変化していくプロセスとなる個人の経験などが(それらを遡っていくと)全て自分以外のものによって決定されている、ということを意味している。        
そのため今回の結論は、「自由意志は存在しない」とか「運命は決定されている」と言ったものではなく、「自由意志は存在するし、自分の意識内では好きに物事を決定、考えたりすることはできるが、その決定や考えができることや、そもそもその決定や考えをしたいと思えるようになること自体は自分で決定できない不自由なものだ」ということになる。これを認めるとどのような考え方ができるようになるかはまとめの部分で述べる。

証明に用いる前提、原理について

 証明とは、自明であったり正しいと直感的に納得できたりする前提や原理を用いて、一見正しいか判断できない命題が実際に正しいことを示す行為だと思うので、まずこの証明に用いられる前提や原理について書きたいと思う。それは先天的要素の不自由さと不自由の伝播性の二つだ。この二つを使ってこれからの証明をしていくが、簡単にこれらの前提や原理について確認しておく。
 まず、先天的要素の不自由さとは、自分を構成する肉体的、精神的要素や自分を取り巻くさまざまな環境について、それらのうちの先天的なものについては自分で決定することができない、ということだ。もちろんそれらの要素の中には、鍛えた肉体や勉強で得られた学力、他者との人間関係など(自由意志が決定する判断によって)後天的に獲得できるものも多いが、自分の肉体の遺伝子や生まれつき持っている選好、自分が誰から生まれるか、といった先天的なものは自分で決定できない、つまり不自由なものとして良いだろう。
 次に不自由の伝播性についてだが、これはあるものの変化において、変化する前のものと変化の過程が両方とも不自由ならば、変化した後のものも不自由である、という意味だ。そしてこれと同じことがあるものの決定についても言える。つまり、何かを決定する際に、その決定の判断材料となるものと、その材料を用いて実際に判断を行うもの(今回は自由意志)が両方とも不自由なものであるならば、決定されたものは不自由である。
以下の証明では数列とのアナロジーを用いて自由意志の不自由さを示していくが、この原理は自由意志と環境を表す数列の隣り合う項間の関係について述べている。 
 前者についての具体例を挙げると、他人が勝手に決めた色の折り紙(変化前の材料)を渡されて、他人が決めた折り方(変化の過程)に従わされ折り紙が完成したとすると、その完成品(変化した後のもの)は当然自分で決定できない、不自由なものになるだろう(その出来栄えや美しさに納得するかは個人の勝手だけど)。
 後者についての具体例としてはChinese Boxのような状況を想像して貰えば良い。すなわち、たとえばA ,B,Cの3択(判断材料)からどれか一つを選ぶように他人に決められて、3つの選択肢の優先順位が書かれたリスト(判断を行うもの)に従って一つを選ぶよう指示されたとしたら、当然選ばれたものは(指示がなかった時の自分の判断と一致するかどうかはともかく)自分で決定できない、不自由なものだと言えると思う。
 上にあげた二つの前提と原理は少なくとも僕にとっては自明なものなので、以下の証明ではこれらの前提や原理の真偽については議論しない。また、証明の部分で話が突飛に感じたら、前提や原理が自分の直感的な理解と合っているか確認してほしい。前提と推論が正しければ証明結果も正しいものになるはずで、逆に考えると証明結果が正しくないと感じる場合は前提か推論のどちらかが間違っているはずだから。
前提と原理についての説明が済んだので、次は自由意志が何によって決定されるか、その成り立ちと構成要素について考えていきたいと思う。

自由意志は何によって決定されるか

結論から言うとある個人の自由意志というのは、先天的な価値観と特性、これまでの人生での後天的な経験、誤差項とも言える真の偶然、の3つで決定されると思う。この記事の最終目標は、これらの一つ一つについて、自分で決定することができない、もしくは自分で決定していたとしてもその決定を遡っていくと不自由な要素が元になっている、ということを示すことだと言える。そして前提の部分で書いたように、このうちの先天的なものについては自分で決定できないとして良いので、残りの二つについて考えていく。

真の偶然について

 上の順番とは前後するが、まず初めに真の偶然について不自由さを示したいと思う。この真の偶然というのは、それを説明する変数が存在しない偶然のことである。例えば、本当にどちらでも良いと思っている二つの選択肢から一方を選ぶ、というのは(人間の意識レベルでは)この偶然によって決定していると考えられる。もちろん、無意識のうちに何らかの選好が働いてその選択肢を選ぶ場合も考えられるが、ここでは真の偶然がもし本当に存在したとしても自由意志の不自由さを示す上では問題ない、ということを明らかにするために、人間の意識レベルでも真の偶然が存在するということを仮定している。そのため、真の偶然は存在しない、あるいは存在しても自由意志には関与していない、としても今回の証明に不都合はない。
 かつての決定論は量子力学が生み出したこの偶然に打ち砕かれたが、自由意志の不自由さについての主張においてはこの偶然は障害になり得ない。なぜなら、この偶然を自分で決定することがその定義上不可能だからだ。決定論においては、世界が確率的に記述されるという主張は自説の根幹を揺るがすものだったが、自由意志の不自由さを示す、という決定論よりも弱い主張においてはむしろ、確率的な記述というのは(自分で決定できないという意味で)不自由なものの最たる例だと考えることができる。これによって今回の主張は決定論が抱える致命的な弱点を克服した、と言えるのではないか。

後天的経験とそれによって変化する自由意志の不自由さについて

 自由意志の構成要素として挙げた3つのうち、最も自由だと思われているのはこれから考える経験だと思う。経験が不自由だと言われてもピンとこない人も多いはずだ。普段よく聞く、二十歳を超えたら自己責任だという考えにも、後天的経験は自由に決定できるという前提が潜んでいる。そしてこの考えが一般的であることは、経験することは自由だという思い込みの表れだと思う。しかしその経験についてもその構成要素を遡っていくと実は不自由である、ということについてこれから述べていく。
 ここで示したいことは、経済的、地理的理由などによって進学や就職などの人生経験の一部が制限される、といったことではない。それよりももっと根本的な経験の不自由さについて考えていきたいと思う。
 まず、ここでの経験という言葉の意味を明確にしておく。経験とは、自由意志によって決定された能動的行動、あるいは他者などの環境からの働きかけによる受動的行動が発生したときに、その行動の結果として何らかの教訓や反省が得られ、それにより自由意志が変化していくことだ。また、その行動の際に周りの環境も何らかの変化を受けることになる。
 そして、今回は経験によって自由意志が変化していくことを数列に落とし込む。具体的には以下のように経験と、自由意志や環境の変化を考える。
ある時点での自由意志をA_n、自分を取り巻く環境をB_mとする。次にA_n,B_m(と真の偶然)に基づいて能動的に、あるいはB_m(と真の偶然)からの作用によって受動的に、何らかの行動が決定される。そしてその行動をした際に得られた教訓、反省によって自由意志が変化し、行動の結果として環境が変化する。つまり、A_n→A_n+1,B_m→B_m+1のように項が一つ進む。
(なお、ここでいう環境とは、周りの人間関係や自分の物理的状況、その時自分が持っている情報など、自分が持つ自由意志以外の全てのものを指し、自分以外の他人が持つ自由意志も環境に含まれる。自由意志と自分が持っている情報の区別は少し難しいが、人が判断する際には、自分が持っている情報についてそれらを比較、評価して最終的な判断を下すということを考えると、判断の際の材料となるのが情報で、その材料を評価し、判断を決定するのが自由意志だと分けることができると思う。あるいは、判断という値を返す関数が自由意志で、その関数に代入する具体的な値が情報と考えても良い)
 この経験の考え方について一つ例を挙げる。
 ある人が、中学校初の定期テストが近いという状況に気付いたので、親や先生などが言っていた「テスト勉強は頑張ったほうがいい」という情報を元にテスト勉強をするという判断をした。その結果テストの点数が良くて親からも褒められたのでこれからもテスト勉強は頑張ろう、という教訓を得た。
 一つの成功体験から努力を積み重ねるようになる典型的な例だが、その分イメージしやすいと思う。この例においてはテスト勉強をした結果テストの点数がよかったという経験をもとに、これからもテスト勉強を頑張ろうと自由意志が変化している。この変化によって次の定期テストの時にもテスト勉強をする判断ができるようになるわけだ。もちろん逆のパターンも考えられるし、スポーツや習い事でも似たような例は考えられるだろう。
 一つ説明しなければならないのが、この例における判断と得られた結果には時間的な隔たりがあるので、経験をどんどん細かく区切っていくことも可能である、ということだ。テスト勉強をすると一口に言っても、実際の行動としてはあの問題を解いて、次にこの問題を解いて、と分けていくことができる。しかし、その場合においてもある判断と別の判断の間にはそれらを決定する自由意志がたとえ無意識のうちにでも存在している(これは自由意志の定義から明らか)ので、A_n→A_n+1のような自由意志の変遷を考えることができる。
 経験を無限に細かく区切っていくことは可能か、というのは難しいところだが、少なくともある判断と次の判断の間にはその判断を行なっている自由意志が存在する、というのは納得できると思う。なぜなら意識的、無意識的に関わらず判断を行なっているもの、というのが本稿における自由意志の定義だからだ。そして自由意志の変遷を追っていく今回の議論においては、経験が細かく区切られようとも、逆に大雑把に分かれていようとも、ある判断における自由意志を(誤差項である真の偶然を含めて)一つに同定できれば良いので、この点はあまり問題ではないと考える。そのため以下の証明では必要であればA_n→A_n+1の間の経験を細かく区切っていくが、特にその必要がなければ行動と結果の間に時間の隔たりがあっても一つの経験として扱うことにする。そしてこれは環境B_mについても同じことが言える。
この考え方を用いることで、連続的に変化する時間の上で成り立っている自由意志や環境を離散的なものとしてみなすことができて、それらの変化を数列で理解しやすくなる。

証明前の諸注意

 さて、上記の注意を踏まえて、いよいよ数学的帰納法を用いた証明を行なっていく。まず、A_0とB_0を設定する。これらはA_n、B_mの初項であり、A_0は先天的な選好とも言い換えられる。B_0をどう設定するかは難しいところだが、後の証明を考えるとビックバンとしても、自分という生命が誕生した瞬間の世界と自分の状態としても大差はない。これらは先天的なものであるので、最初の前提の部分で書いたように、自分で決定することはできない、つまり不自由なものである。
 次に、ある時点での自由意志と環境をA_n、B_mとおいて、A_nとB_mは不自由だと仮定する。そして、経験などによるA_n、B_mの変化を次の3つに分類する。すなわち
(1)A_nとB_mが同時にA_n→A_n+1,B_m→B_m+1と変化するとき
(2)A_nだけがA_n→A_n+1と変化するとき
(3)B_mだけがB_m→B_m+1と変化するとき
である。そしてA_n、B_mが不自由だという仮定のもとで、どのパターンにおいても変化した後の二つの項がそれぞれ不自由である、ということを示せば、A_0とB_0が不自由であることから帰納的に任意の項A_i,B_jが不自由であるということが言える。では、具体的な証明に移りたいと思う。

証明

(1)A_nとB_mが同時にA_n→A_n+1,B_m→B_m+1と変化するとき
このパターンの具体例としては、自由意志によって判断された行動による能動的経験と、周囲の人間などを含んだ環境からの行動による受動的経験が挙げられる。どちらの場合においても、その行動を決定する自由意志(能動的経験ならばA_n、受動的経験ならばB_mに含まれる)は不自由であり、その判断材料となるB_mは不自由であるので、不自由の伝播性から、決定された行動が不自由であることが言える。そして変化元のA_n,B_mが共に不自由であり、変化のプロセスである行動も不自由であることから、その行動の結果変化したA_n+1,B_m+1も共に不自由である、ということが言える。なお、この変化の際に自由意志や環境に存在する真の偶然によって行動や結果が若干変化することも考えられるが、その真の偶然も自分で決定できないという意味においては不自由なものなので、伝播性や結果に影響はない。
(2)A_nだけがA_n→A_n+1と変化するとき
このパターンの具体例はあまり思いつかないが、強いてあげるなら自分の思索によって自分の判断基準、つまり自由意志が変化することだろうか。(一応言っておくと、たとえ(2)に当てはまる具体例が存在しないとしても、証明の正しさにはさしたる影響はない)このパターンにおいても、変化する原因となった経験について考えると、その経験で行われた行動を決定する自由意志A_nと、その決定の判断材料となったB_mは仮定から不自由であるので、不自由の伝播性からその行動は不自由なものとなる。そして、変化元のA_nと変化のプロセスである行動が不自由であるので、変化した後の自由意志A_n+1も不自由なものとなり、B_mは先ほど述べたように仮定から不自由であるので、変化後の項両方が不自由であることが言えた。
(3)B_mだけがB_m→B_m+1と変化するとき
具体例としては、自分が全く関与していない世界での変化や習慣化された行動による自由意志が変化しない(教訓や反省が得られない)経験などが考えられる。まず、自分が全く関与していない場合は当然その変化のプロセスは自分で決定できない不自由なものであり、仮定から変化元のB_mも不自由なものであるので、伝播性を用いてB_m+1が不自由であるということが言える。また、習慣化された行動による経験の場合は、その行動を決定している自由意志A_nと、決定の判断材料となるB_mが仮定より不自由であるので、伝播性からその行動も不自由なものだと言える。そして変化前のB_mと変化のプロセスである行動が共に不自由であるので、伝播性から変化した後のB_m+1も不自由であることがいえる。A_nは仮定から不自由であるので、両方の項について変化後も不自由であることが言えた。
 これで全てのパターンについて証明が終わったが、見てわかるように証明部分は短くて、(二つの前提と原理が正しいのならば)当たり前のことしか書かれていないので、証明で疑問に感じるところがあった人は前提の、特に不自由の伝播性について確認してみてほしい。
 今回の証明において、論理的に破綻している、もしくは現実と即していない可能性があるのが、原理としておいた不自由の伝播性、もしくは自由意志と環境の変化を離散的に考えて数列に落とし込むところだと思うので、その辺りで解決できない疑問がある人はぜんひ一緒に議論したいと思う。

まとめ

 以上で証明が終わったので、ここからは自由意志が不自由だとするとどのような考えが可能になるのか、ということについて書いていこうと思う。
 まず、あらためて今回証明した「自由意志が不自由である」というのはどういうことかというと、何かについての判断をする際に、自由意志によって自分で決定することは可能だが、そもそもその判断をするような自由意志を自分が持てること、というのが自由ではないものだということになる。
 具体例を挙げると、自分に何かやりたいことがあったとして、それに向かって努力するという判断は自分の自由意志によって決定できるが、そもそもそのやりたいことをやりたいと思えて、その実現に向けて努力したいと思えること自体が自分にとって決定できない、不自由なものであるということだ。
 そして自分で決定できないことがどのようにして決まったかというと、A_0とB_0と真の偶然の3つによって決まっているので、要するにやりたいことが見つかることや、とかこういう人間になれた、などというのは全て運による、というのが「自由意志が不自由である」ということが述べていることになる。
 もちろんその運の良さがどこに発揮されるかは人によって違う。遺伝子が良かった人もいれば環境が良かった人もいるだろうし、あるいは適切な人間関係を作れるところに運が向いていた人もいるだろう。しかしそれがどのような形であろうと、全て運が良かったという形でまとめられる以上、どれがより価値があるかを決定することはできないと思う(おそらく多くの人が、自分の運が良かったところは価値のあるものだと思うだろうが)。
 そしてこの考えを発展させると、「努力ができること」と「努力の結果」にも価値を見出せなくなってしまう。宝くじで10億円当てようが、勉強やスポーツを頑張って大成して同じ金額を稼ごうが、どちらもそうなることやそうなりたいと思えることが自分で決定できないので、両方とも運が良かっただけ、ということになってしまう。
 そして運が良い人もいれば運が悪い人もいる。ある人は過去の努力が実らなかったから、また別の人は生まれつき、など様々な理由が考えられるが、努力をしたいと思えない人間が世の中には存在する。その人たちに対して努力をしろ、と言うのは簡単だし、その人たちの身に起こる不幸を、努力を怠ったせいだと決めつけるのはわかりやすい(しかも努力を怠ったせいだというのは大抵の場合正しいだろう)が、自由意志が不自由だと認めると、努力できないことや、あるいは努力したくないと思って実際に努力しなかったことについて、その人が悪いわけではない、ということも認める必要がある。その人は努力をしたいと思える自由意志を持つ運に恵まれなかっただけなのだから。これは、生まれつき障害を持つ人に対して、その人は悪くない、強いて言うなら運が悪かったと考えるのと同じだ。だから、努力しない人を自己責任だと判断するのは倫理的に悪いことになる。もちろん、努力ができる人や何かを積み重ねてきた人にとってはこの考え方は納得できないだろう。あえて悪い言い方をすれば自分の既得権益が犯される考え方なのだから。しかし、自由意志の不自由さを認めると、「自分が優秀であること」とか「自分が今まで努力を積み重ねてきた人間であること」というのは全て運の良さに還元されてしまう。そのためそれらに価値を見出すことは「現在の自分の立場に立った時に利益が最大になる」ように考えているだけに過ぎないものとなってしまうので、自由意志が不自由だという考えのもとでは、「優れていること」や「努力ができること」と、「倫理的に正しくあること」を同時に達成するのは非常に難しい。しかも、倫理的に正しくありたい、と思えることすら運の良さによるものなので、上の難題を達成しようとすると「自分が優れていたり正しくあろうと思えたりするのは、ひとえに自分の運が良かっただけなんだ」と言う気持ちを持ち続ける必要がある。
 個人的な話をすると僕の中で正しくありたいという欲求は非常に強いものなので、自由意志が不自由だと考えている今の状態では、努力できない人を差し置いて自分だけ努力する、ということに大きな抵抗を感じている。その一方で努力をして自分の価値を高めるべきだ、という考え(これは努力をしたいと思えない人間にとってはかなり狡いものに思えるだろう。僕がこのように考えられるのは運の良さによるのだから)も大きくなりつつあるので、僕が状況を打破するためには「正しくあることを止める」か「自分に価値を認めることを止める」かの2択を選択する必要がある。最も、どちらを選ぼうともそれを選択できたことに僕の価値はないのだけれど。
 上で散々「努力できること」に価値はないと書いたが、結局「自分が価値があると思うことには価値がある」というトートロジーは、その当人にとっては真実なので、自由意志の不自由さを認めたからといって虚無主義に陥る必要はないと思う。努力できる自分を誇らしく思うことも、やっぱり本人の自由なのだから。

 最後の方は倫理的な話になってしまったが、一番大事なことは、上の証明が正しくてなおかつ実際に即していること、だと思うので、違和感を覚える人がいたらぜひ議論やレスバを仕掛けてきてほしい。
 ちなみにタイトルは最近ラブコメとかでよく見る『〇〇な〇〇さん』を意識している。


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