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私が私を見ている


 高校生の青春ものかー。
 最初に「95」というドラマの概要を見た時に思ったのはこれだった。大人って、高校時代に絶対に戻れないからか分からないけれど、やたらめったら高校時代を眩く美しくエモく描いたものをエンタメにするよな……と自分ももう大人なくせにそんなことを思っていたから、観るのになかなか腰が上がらなかった。自分の学生時代が輝かしいものじゃなかったからなのか、大人の理想を押し付けるようなフィクションに嫌気がさしてた。
 「95」という作品を見終わった今、過去の自分に大丈夫だよ、と言いたい。確かに眩く、輝きはあったけれど、それが高校生特有のもので、高校生でしか得られない青春、みたいな描き方はされてなかったように思う。
 青春をやけに主張するものって、まるで高校生じゃなくなったら生き物として一度死んでしまうのかな、という気持ちになるし、高校生じゃなくなったら自分たちって価値をなくしてしまうのかな、という気持ちになる。なる、というかなっていた。ここまで言語化はしていなかったけれど。だから高校時代に青春ものを見ると半分くらいはなんだか嫌な気持ちになって終わった記憶がある。
 「95」は、高校時代の話ではあるものの、高校時代がまるで人生から切り離れた出来事のようには扱わない。人生という長い旅路の中の一幕として扱う。高校を卒業しても人生は続くしみんな生きているし、高校生であることに価値なんて本当はなくて勝手に大人が惜しむように価値を付随してるだけだ。95は確かに輝きも眩さもあるけれど、ドラマにおける様々なことはただ事実であって、それ以上でもそれ以下でもなく、事実がぽつねんと存在する。大人になった秋久が振り替える形で高校時代が流れるからか、もう変えることの出来ない過去の事象として俯瞰で見るような形だからかもしれない。ともかく、その事実によって現在の秋久がいて新村萌香が存在する。
 よくある青春ものと異なるのは、刹那的では“ない”からだと思う。刹那的じゃないのだ。「世界が終わっても生き延びる」という言葉が何度か出てくる。彼らは真っ直ぐに未来を見据えている。世界が終わったとしても生き延びる強さを得ようともがいている。特に秋久は終わってもいいと思っていた世界に対して、終わって欲しくないと思うようになったし、終わったとしても終わった世界を生き延びる、と言い切るようになる。そういう変化は、どちらかというとどれほど辛く苦しい現実であっても“生きる”ことを選択し続ける、という現実と逃げずに向き合う決断のように思う。地道な“今”という時間を積み重ねることで未来があり、変化することでなりたい自分になっていく。
 思春期にある特有の万能感みたいなものも、薄い気がする。彼らはどちらかというと太刀打ち出来ない現実に打ちのめされそうになっていて、人ひとりの小ささや無力さを痛いほどに分かっていて、それでも尚、そのままでいたくないと、一生そのまま生き続けたくないと抗い立ち向かうのだ。やっていることは派手で暴力的であるし、一見万能感によって起こしているようでありながら、未来を生き抜くために、仲間のために抗っているだけで、行動要因は切実で愚直だ。
 それに、このドラマはこの物語を眩く描きすぎない。主人公サイドの人間の過ちや間違いなんかも真正面から描く。この物語で一貫している“世界は終わらない”、というのがここでも絡んでいて、過ちや間違いを起こしても無情なまでに世界は続いていくし、生活は続く。現実だってそうだ。嫌なことや苦しいこと、ひとりじゃ受け止めきれないような出来事が襲いかかっても次の日は来るし、生活の営みはしなくちゃならないし出来てしまう。ドラマでも衝撃的な出来事があっても物語は続いて終わらない。過ちや間違いを背負ったまま登場人物たちは物語の中を進んでいく。かえって、そこに光を見た。人生において間違いは絶対に起きるし、過ちもおかす。それでも前を見て突き進む姿は、その強さは、絶対的な光だ。過ちや間違いを肯定することはないのだけれど、ここの描き方に力を感じた。
 「95」に眩さはあった。けれど、美しさはなかったし、エモさもなかった。ただ“今”を生きているだけなのにエモさなんてないのだ。エモいという感情は過去を懐古することと一緒に起きるもので、大人になった秋久の視点では多少エモさはあったかもしれないが、高校時代の秋久においてはそれは感じられず、それが本当に良かった。また、人間の生というのは美しさを持つこともあるが、半分くらいはグロくて生々しくて気持ち悪い。そういう、グロさや気持ち悪さなんかも描いていて、過剰に美しくすることがなかった。大人の理想も、押し付けられてるような感覚はなかった。どちらかというと、大人の作り手がまるで自分自身に刃を向けるように、「カッコよくあれているか?」と突きつけるような鋭さがある。
 カッコよくあれているか? ダサいことはしてないか? ダサい大人になっていないか?
 そういう、思春期の自分が大人の事情なんて知らぬ顔で鋭く問い詰める。それに応えて生きていく。そこに作り手の覚悟と誓いみたいなものを感じる。この物語はどちらかというと子供のための物語じゃなく、大人のための……大人が子供の頃の自分を裏切らないための物語のように思う。Qが母親を、翔をひた、と見つめている。「ダセェことすんなよ」と。それは物語を超越して、Qから気づけば高校生の自分の姿になり、私に問いかけてくるようで。私は、私を裏切っていないだろうか。


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