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読書メモ・pha『パーティーが終わって、中年が始まる』(幻冬舎、2024年)

東北地方のある都市の、駅前にあるミスタードーナツで、たまたま隣の席で話していた若者が紹介していた本。

理想の読書会(その2)・pha『パーティーが終わって、中年が始まる』(幻冬舎、2024年)|三上喜孝 (note.com)

「書店員」を称する30歳の若者が、読書体験のない若者に対してこの本のプレゼンをしているのを聞き、なぜか私の方が感化されてしまい、読んでみることにした。
こんな書き方は上から目線のようになってしまうのだが、この本は「至極まっとうな人生論」である。しかも著者よりも10歳ほど年上の私がこれまで経験したり感じてきたりしたことをまるでなぞるように書いている。

「中年になって、他人と一緒に過ごすことの許容度が下がったのはなぜだろうか。なんだか中年になると、自分も他人も、存在しているだけでうっとうしさが発生してしまっている気がする」(「中年の不要な存在感」15頁)

こうした中年のうっとうしさというのは、中年に不要な存在感が付与されているからだと著者は考えている。たしかにそうかも知れない。若者と話していても、自分は(自分で思っている以上の)無駄に存在感があるゆえに、若者にとってはうっとうしい存在になっているのではないだろうかという気がして常に怯えている。
それと裏腹の関係かもしれないが、先日、同い年の友人とメールのやりとりをしていたら、「最近は何をするにも億劫で、仕事は仕方有りませんが、プライベートは興味が無いものには極力関わりたく無いと思ってしまいます」
と、むかしの仲間たちと大勢で無目的に集まることへのうっとうしさを吐露していて、まさにそうだなと思う自分がいた。
著者はあとがきでこんなことも書いている。

「若さというのは本当に魔法のようなもので、本当はたいしたことがないものを、いくらでもキラキラとしたものに見せかけてくれる。
その魔法が解けてしまうと、いつまで経っても変わらないどうしようもない自分の性格や、面倒くさいだけの人間関係や、とりたてて特別なことなんて起こらない日常などの、しょぼい現実が露わになってくる。
中年の入り口では、そんな現実に直面させられてしまっては落ち込んだりもした。だけど、魔法や幻想が解けてからのこれからこそが、等身大の自分でなんとか工夫をしながらやっていかなければいけないという、人生の本番なのかもしれない。そんなふうに思えるようになってきた」(144頁)

私よりも10年遅く生まれた著者による中年論。いわば私は中年の10年先輩にあたるが、先輩から見てもこの中年論は「おぬし、よくわかってるぞ」とやはり上から目線で語りかけたくなる。そして私よりも10年ほど先輩にあたる小田嶋隆さんの『諦念後』。

読書メモ・第8回・小田嶋隆『諦念後 男の老後の大問題』(亜紀書房、2022年)|三上喜孝 (note.com)

この2冊があれば、中年なんて怖くない。

#諦念後



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