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自分の感性に底が見えた(かのような)感覚って。

この頃、写真を撮るためだけにどこかを歩いたりすることが少なくなってしまって。
「なんでかな」と考えを巡らせたところ、なんとなく自分が撮る写真への飽きというか、大袈裟に言うと「自分の感性に底が見えた」ような気がして、「どうせ…」みたいな思い込みが足を重くしているのかも、というところに至った。

そういった感覚を破るのは、何だろう。
道具を、または場所を変えて一時的に視界が開けたとしてもおそらく、また飽きが来て同じことを繰り返すはず。

しかし、もう一度冷静になってみれば、
そもそも「感性」という底のない物に底を見たつもりになるのもおかしい。
であれば、これは感性そのものの底ではなく、まだ先を覗けない淀みを目にして、狼狽しているだけのことか。

さらに言えば、本気で覗こうと、紐解こうとしているのかと言われれば、それすら。快、不快のラインはあるはずなのに、ふわふわしていて。

濱田英明氏のワークショップでは、「写真を言葉に、言葉を写真に」ということをされていたという。そういうことを、「なるほど…」とは思いつつやってこなかったな。

つまるところ、見えたのは底じゃないのかも。
閉塞感を破るには、感覚を言葉にするところから。なのかな…。

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