【書評】イドコロをつくる~乱世で正気を失わないための暮らし方~/伊藤洋志
ずっと、私の世界は狭かった。
ひとたび自分の世界に不具合が生じると、それはすなわち
「終わり」
のように感じられてしまう。
中学から大学まで一貫校だったということもあるかもしれない。
社会人になって直近まで働いていた職場も15年近く勤めた。
世界が家と学校、家と職場のみだと、様々な価値を判断することも難しくなる。
そうした環境下で陥った、自分を卑下したり、閉塞的な世界で絶望する経験は、『正気を失う』状態と言えるかもしれない。
最近では「サードプレイス」と呼ばれる概念も知られるようになった。
家や学校・職場とは違う、第3の場所。
自分がくつろげる、リラックスできる居場所。
そうした場所を「イドコロ」と称し、その必要性を記し、多彩な実践例を紹介しているのが本書『イドコロをつくる~乱世で正気を失わないための暮らし方~』である。
筆者は京都大学で農学・森林科学を専攻し、修士号を取得後、企業に就職するが退職。
以降、価値観を共有できる人たちに向けた個人サイズの仕事『ナリワイ』を運営する自営業を続けてきた。
そしてその仕事を続ける中で、人がい合わせる「イドコロ」では、自然に助け合いが生まれたり、ストレス社会のプレッシャーから解放される場所として機能していることに気づいた。
私は本書の表現、『イドコロ』が好きだ。
本書では「居場所」と「イドコロ」を区別している。
「居場所」は固定化されたコミュニティであり、転じると村八分やフリーライダーへの妬みが生じるという。
そうした光景は私も長年続けてきた地域組織支援の中で目の当たりにしてきた。
地域で高齢者の居場所を作る目的でサロンが立ち上がっても、
財源が自治会費だったりすると、
「あの人は自治会に入っていないから参加させてはならぬ」
といった分断が起こってしまう場面もある。
(もちろんその言い分も理解できる)
筆者は固定化した「居場所」ではなく、もっとライトで軽い「場」が必要ではないかと問題提起する。
同じ銭湯で同じ気持ちよさを共有する。
なじみの喫茶店で何を話すでもないけど、顔見知りがいるなど。
人間が「いる」だけでい意義があるのだと。
私が学生時代、その狭い世界で息ができなくなった時、救い出してくれた社会活動家の大先輩がいた。
いろんな世界を見た方がいいと、社会のマイノリティとともに歩む活動へたくさん連れだしてくれた。
その先輩が話していた言葉を思い出す。
「ともに時間を過ごすだけでいい。それが大切」
と。
「何かをしてあげる」ようなボランティア活動ではなく、ただその時間を、共有する。
それこそが、筆者のいう「場」に通ずるものではないか。
かつては「民主主義が成立するには広場が必要だ」といった言葉もあったらしい。
狭い価値観・世界の中にいると、人は正気を失う。
友人・家族・町の広場、公園、喫茶店・趣味の集まり、こうしたものが複数あると、人は正気を保つことができ、客観的な視点を失わずに済む。
本書では養老孟子氏の
という言葉を紹介している。
こうした過密な状態がSNSの炎上やいじめを生んでいるのではないかとの指摘である。
行政や国家が主導した意図的な見守り体制の構築でもなく、密な関係を醸成するのでもなく、「ただともにいる」大切さを改めて考えさせられる。