人生で初めて入院した話
今年、人生で初めて入院を経験しました。
たった1週間の入院でしたが、その時の気持ちを忘れたくないと思い、この記事を書いています。
※感情に焦点を当てているので、入院のきっかけや時系列は省いています。
◉わかっていても
突然の出来事で、ずっと健常だった自分には考えられなかった。
「なんで私が」とも思った。
重篤な病ではなくても、受け入れるまで時間がかかった。そう感じてしまう自分は、仕事や趣味、家族や友人との時間、、と、日々を充実させていたいという想いが、とても強いことに気づかされた。
次はいつ仕事ができるか。
友達と会う予定、消えてしまった。
本読みたいな。
ジム行って身体をしっかり動かせるようになりたい。
「健康な時に、やっておけばよかった」と思うことが、考えれば考えるほど増えていく。
そんな考え事をできる自分はまだまだ幸せなんだな、と思った。
「このまま良くならずに、日常を取り戻せなくても、日々を楽しんできたし、大丈夫。」と思うことはできなかった。
あ、自分ってやりたいことを十分やっている感覚でいたけど、納得できないな、まだまだだな、と自分への甘さを感じた。
当たり前にできることは何一つない
承知はしているが、自分の身に何か起きない状態では、なかなか実感はしない。
「当たり前をなくした経験」があればあるほど、人は強くなる。
◉最期にやりたいこと
向かいのベッドで寝ているおばあちゃんが、看護師さんとこんな話をしていた。
👵おばあちゃん(患者)
👩⚕️看護師
👵なんでこんな病気になっちゃったんだろうね?
👩⚕️なんでだろうね〜
私だっていつか死ぬんだもん
みんないつか死ぬ。
人間だもんね。
でも人間だからっていうことを
理由にするのは
ちょっと寂しい気もするな〜。
だから最後までご飯食べる時くらい、
楽しいって思って過ごしたいじゃん。
私も死ぬまで美味しいもの食べたいもん。
だからさ、
今のご飯が食べづらかったら、
食べやすくて、
楽しいって思える時間にしようね。
明日メニュー持ってくるから見てね。
私は私だから
という理由で、諦めていることがないか。
片付けてしまってはいないか。
おばあちゃんの食事が、あまり進んでいないことに気づき、日常のごはんを楽しい時間にしようとする看護師さん。
看護師さんは、ひとつひとつの日常が当たり前ではないということをわかっていた。
小さな楽しみを少しでも生み出そうとしているのがよくわかった。
好きな仕事ができなくなっても、
好きだったスポーツができなくなっても、
趣味の読書や編み物、カフェ巡りができなくなっても、
それでもこれだけは死守したいと思う何かが、自分にはあるのだろうか。
最期にやりたいこと。
それは、何にも替えられない、どうしても譲れない物やコトという大それたことではなく、ただ何気なく過ごす日常の食事や運動、家族との会話なのかもしれない。
無くしたことがない私には答えがわからなかった。
◉最大の武器は「誇り」
次の日、リハビリの状況を診ている医師がおばあちゃんとこんな会話をした。
👵おばあちゃん(患者)
👨⚕️医師
👵迷惑かけてばっかりじゃんこれじゃあ。
🧑⚕️そんなことないよ、何も迷惑じゃない。
楽しくてやってるの、私は。
私の楽しみに、
付き合ってくれてるんだもんね?
あまりにもさらっと答える医師の言葉に、読書をしていた私は本を置く他なかった。
-楽しみに、付き合ってくれている
相手に気を遣わせず、深く考えさせず、心をぱっと軽くする言葉だった。
医師という仕事の枠を超えていた。
自分自身の生き甲斐というのか、これが天職と呼ぶものなのかな、と思った。
自分が人に対して期待をせず、見返りを求めず、
心の底から医師という仕事が好きなんだなという志が伝わってきた。
なんだか愚痴を嘆いたりしている自分が、情けなくなった。これがプロフェッショナルかと思った。
素敵な話や感動するエンターテイメントは世の中に溢れている。
それでも、看護師さんや医師の対応とおばあちゃんとのやりとりは忘れたくない。フィクションよりも、自分にとっては何にも替え難い日々だった。
こんなことを考えていたらあっという間に1週間が過ぎ、退院しました。
忘れていたものをたくさん思い出させてくれた気がします。
いつかこの出来事が、何かの原体験だったと振り返る日が来るんじゃないかと思っています。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?