一度は行きたいあの場所
ウィーンの楽友協会。
一度は行きたい。この贅沢は許される気がする。
父は1930年生まれで、戦争体験者だ。
あの年代の人は皆んな苦労した。父も同じだ。
戦争が終わって自由になった時、父はクラシック音楽を耳にした。
「こんなに美しい音楽がこの世にあったのか!」
驚きと感動を後々まで語った。
若かった父は毎月のようにレコードを買って音楽を聴いた。当時はかなり高価だったはず。でも渇いた砂が水を吸収するように音楽に聞き入った。
それだけでなく、バイオリンを買って独学で練習した。
私は覚えている、チューニングをしている父の姿を。
低音から始まるチューニングは、恐ろしい事が起こる前兆のような気がして幼い私は泣いた。
父は笑ってバイオリンをしまった。
それから私が高校生になった頃、バイオリンを譲り受けた。私も教則本を見ながら独学で練習した。
父はレコードをズラリと専用棚に並べてヘッドフォンで聴いていた。
私が通りかかると呼び止めてヘッドフォンを私の耳に当て、いかにステキな音楽かを語った。
私の「聴く耳」はここで育った気がする。
父は作曲家のこと、楽団のこと、指揮者のことなど熱く語った。特にカラヤンが好きだった。
父が入院して不在の時も私は進んでレコードを聴いた。聴きながら裏の説明を読むのが楽しくなっていた。
私はズラリと並んだレコードを左から順番に聴いた。
それから40年の月日が流れ、病床の父の身体を私はさすっていた。残された時間は少ないことをお互いに理解している。
父をさすりながら
「ウィーンフィルのニューイヤーコンサートにいつか行きたいな」と呟いた。
「でもびっくりするくらい高いもんねー。50万は軽く超える」と言うと、父は薄く目を開けて何か考えているようだった。そしてゆっくりと私を見て
「それは 高く ない。行ったら 良い」
と言うとまた目を閉じた。
病床の父と久しぶりに色々な話をした。というか、私が話すのを父は聞いてくれた。特に旅の話を聞く時は目が生きていた。
父と母は70歳過ぎてから海外旅行に目覚め、オーストラリアやカナダなどに出かけて楽しんでいた。
私の話を聞きながら、母との楽しかった時間を思い出しているのだろう。
「子どもがいて良かった。子どものいない人生は考えられない」、小さな掠れる声でそう言った。たくさん心配かけた私はその言葉で救われた気がする。
母と私、2人の妹、叔母も父の看護に交代で当たった。
父は若い頃から大きな病気を繰り返して、自分でも長生きはしないだろう、と言っていたそうだ。それが、驚く運の良さと生きたい気持ちの強さで83歳まで生きる事ができた。
父のことを思うとウィーンフィルのニューイヤーコンサートを同時に思う。
父も行きたかったのだ。
父の面影を抱いて、いつかウィーン楽友協会コンサートホールに行きたい、と思っている。