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安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅰー

安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅰー

安部公房論を書いてきて、ついに、『壁』という小説の個体原理論に辿り着いた。昔、読んでいた時とは、全く異なる感覚で、『壁』が再読できたが、発見というより、驚きと言った方が、適切だろう。安部公房全集の第一巻と、文庫本(安部公房短編集)という、『壁』以前の小説群を、読み解いていたから、そこからの飛躍性が、とんでもないことになったという、驚きである。芥川賞を受賞した『壁』は、素晴らしい作品として、世に出ただろうが、『壁』以前の小説群を読んでから、『壁』を再読すると、もはや、この小説は、問題作、としか言いようがない。『キンドル氏とねこ』から連なる、『壁』は、やはり事件の匂いがする。今回も、小説の文章を抜粋して、如何にこの『壁』が、問題作であるかを、述べてみようと思う。

S・カルマ・・・、口の中で繰返してみました。ぼくの名前のようではありませんでしたが、やはりぼくの名前らしくもありました。

『壁』/安部公房

一瞬、カフカの『変身』を思わせるような、驚きの展開から、小説は始まる。事務所の自分の名札の場所には、S・カルマ、と書かれており、主人公は、その名前が自分の名前とされるのだが、名前を喪失した主人公は、なかなか納得がいかないのである。この訳の分からない小説の始まりは、『壁』以前の小説にはほとんど見受けられない。辛うじて、『キンドル氏とねこ』的な要素も含まれているが、圧倒的に『壁』のほうが、完成度は高く、読者を惹きつける何か、がある。この、何か、こそが、探求すべき、我々に課された、芥川賞を取ったという内実の秘業である。

次の展開。

「おやすいことです。最初の犯行のとき、被告が私とドクトルに自白したごとく、被告は何か対象物をじっと見詰めていると自然にそれを眼から吸取ってしまう性質をもっているのです。」

『壁』/安部公房

この様に、主人公は、被告と規定され、さらに、「何か対象物をじっと見詰めていると自然にそれを眼から吸取ってしまう性質をもっている」と言われている。こういう台詞もまた、安部公房文学が、開花したことを現す、重要な台詞である。初期の観念的な、小説構造から逸脱し、見事に現実感を持った状態で、読者を錯覚させながら、小説は進んで行く。「何か対象物をじっと見詰めていると自然にそれを眼から吸取ってしまう性質をもっている」などと言う、非現実的な内容が、現実的に書かれており、SFの要素も含みつつ、安部公房は丹念に執筆を進めている。取り敢えずは、『壁』にて、大きな仕事をしようと思ったに違いないのだ。そういった意味において、『壁』は異常なほどに、計算作られている。我々が、この小説を読んでおかしくなったのか、はたまた、安部公房がおかしくなったのか。しかし、これまで安部公房論で述べて来た通り、常識人で風変りではない評論などを書ける安部公房を想起すれば、読者が迷宮に迷い込む様な設定を、敢えて作っている、安部公房が浮かび上がる。結句、騙されるのは、読者のほうなのである。

この、安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考ー、は、まだまだ続くが、ここで一つ触れて置きたいことがある。それは、安部公房全集の第一巻と、文庫本(安部公房短編集)という、『壁』以前の小説群では見られなかった、文体の変異である。この『壁』という小説、台詞以外の文章が、語尾が「です」「ます」調になっているということである。この「です」「ます」調というものは、読者になにか丁寧な感じを与えるし、長文を書く時には、文字数が増えるという利点がある。芥川賞を狙ったとしたら、それなりに多くの長い文章が必要になるだろうから、という発想で、安部公房が意図的に、「です」「ます」調を使ったのかどうなのか、それは分からない。しかし、必ず指摘して置かねばならない事態だと思う。この点においても、安部公房の『壁』は、問題作である。カフカ的発想や、読者を騙すトリックや、この「です」「ます」調など、問題と捉えられる内容は多々ある。しかし言って置くが、この問題作というのは、勿論のこと、悪い意味ではない。非常に前衛的だ、という意味合いである。

何回に分けて、この『壁』を論ずるかは、今のところは未定であるが、相当な数に分けて論じる必要性がありそうである。安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅰー、はこれにて終わるが、自分としては、これまでの安部公房論を敷衍すると、よくもこのような、或る意味読者が発狂するかのような小説を書き上げたものだと、改めて賛辞を送りたい。文庫本の帯には、「1951年安部公房27歳 芥川賞受賞 世界あのKobo Abeはここから始まった!」と記されている。余りに早熟な安部公房が、『壁』の裏で執筆していることに、またしても、大きな驚きを覚えずにはいられないのである。安部公房論ー問題作、『壁』についての雑考Ⅰー、を、ここで終えようと思う。

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