映画『箱男』論ー前衛的なる構造論ー
映画『箱男』論ー前衛的なる構造論ー
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8/23、映画『箱男』の公開初日に、午後からチケットが取れたので、映画館で観て来ました。もともと、安部公房の映画は観たことがなくて、今回が初の、安部公房の映画でした。ストーリーを書いてしまうとネタバレになるので、ここでは、映画『箱男』の構造論を書いて置くとする。まず、安部公房の小説『箱男』は、はっきり言って、かなり意味不明である、しかし、途轍もなく面白い発想と構造で、成り立っている。であるから、映画として作るのには、かなり難しい解釈に挑まねばならないだろうと、予見していた。
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映画を観終わって、この様に解釈したか、という驚きと共に、主役の永瀬正敏が、かなりの努力が必要だったであろう演技をし、その演技に打たれるものがあった。端的に言って、最後の永瀬正敏の視線は、相当カッコよかったと思う。あの姿勢によって、映画を終わらせたところに、映画『箱男』の本質が有ったように思われるので、是非、映画館で観て貰いたい。自身も、余り永瀬正敏の演技を観て来た訳ではないので、そう言った点で、とても新鮮だったし、永瀬正敏の魅力にハマった格好となった。
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そういう状況だが、構造としては、二転三転有りながらも、重層的なもので、小説『箱男』をしっかりとした形式でまとめた様に思う。最後の落ちをどうするかと考えて居たが、自身が思ったものではなかった。そのため、映画の観賞後、あっけにとられた形となったが、上記した様に、永瀬正敏の視線によって、うまくまとめた構造になったと、今、振り返って思う。映画『箱男』の構造は、至って前衛的である。これは、安部公房の計画的執筆の『箱男』の前衛さを、存分に取り入れた形になっており、映画の構造として、成功したものになっていると思われる。
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特に、箱男としての動きが、小説に充分に即して居ることからも、安部公房も天国で満足しているに違いないと思った。無論、違う構造の映画にも出来ただろうが、安部公房が喜ぶ形になっていると思われ、それは石井監督の裁量が適したものであったという明証になって居ると思われる。そして、現在、本日観た映画『箱男』を振り返って、やはり箱男はカッコいいと思うし、最後に、箱を捨てた、と解釈して良いだろう、構造は、大きなテーマとなって、自身に現代の匿名性を思考させるものとなっている。しかし、これらの解釈は、主演の永瀬正敏の、ふと見せる表情や行動に、大きく傾倒していると思う。
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映画『箱男』論ー前衛的なる構造論ー、として述べて来たが、ここで言うところの前衛は、安部公房、石井監督、永瀬正敏、に共通した前衛である。云わば、安部公房の意図を汲んだ、石井監督と永瀬正敏による、前衛の体現、だったと言えると思われる。周囲の俳優陣も、その前衛を多分に補助し、活性化した演技だったと思うし、率直な感想としては、演技がみな、とても上手だった、との結論に至る現況である。映画論を書いたことはほとんどないので、うまく論じられたかは不明だが、前衛的であり、映画ならではの娯楽も入った、秀逸な映画だったと思う。映画『箱男』論ー前衛的なる構造論ー、として述べて来たが、観賞後に購入していたパンフレットを見て、もう一度、映画『箱男』が観たくなった。興味のある方は、是非、映画館に足を運んで、映画『箱男』を観て貰いたいと思う。自己の価値観が、少し広域を帯びたものになり、最上の映画だったと思う。ここで、本論の終わりとする。ありがとう、映画『箱男』。