萩原朔太郎論ー発想の根源の不可思議ー

萩原朔太郎論ー発想の根源の不可思議ー

萩原朔太郎の詩を読んで居ると、一体どこから、こんな発想の詩が生じたんだろう、と、ふと疑問に思い、立ち止まることが多々ある。勿論、詩人であるから、発想とはその根幹を占めている訳で、実質的には充分な詩作土壌があるとは思われるが、なかなか、焦点が見出せない。拙稿の既出論では、医者の家に生まれた文系ということで、理系的発想が如実に見られると述べたが、やはりそれだけを詩作の土壌としているとは、到底思えないだけの、詩の数々である。読み込むと、確かに、自然への崇拝や、キリスト教用語も出てくるが、もっとその、詩的発想の根幹を知りたい。

何よりもまず、口語自由詩の確立者であるから、そこのところは、随分な自由な詩作が出来たであろうと思う。すっと浮かんだ言葉を、詩に変容させて書いたということは充分に理解出来る。勿論、ノートにおいて、言葉の実験に次ぐ実験をやっただろうことは、偉大な『月に吠える』を始めとする、詩集それぞれに、見られるし、特徴的な実験だっただろうとも思われるが、タイトルにもあるように、ー発想の根源の不可思議ー、が残存するのである。これは、萩原朔太郎が、一種の白痴的なものを身体的に持っていたということにはならないだろうか。

つまり、自分が何を述べているかを、余り分からない侭に、ノートで成熟した詩になりそうなものを、脳の白痴的発想、ーこれを発想と述べて良いかは分からないがー、によって、詩に化したのではないか、ということだ。それ故、全ての言語は、ただその根源の不可思議を持った侭、詩へと到達したとは言えないだろうか、と思う訳である。そう思えば、まさに何通りもの詩を、半ば無限的に創作出来たということにも説明が付く。理系的発想や、自然への崇拝や、キリスト教語など、それらは、上記した方法論を通れば、自然と詩化されたと想像がつくのである。萩原朔太郎論ー発想の根源の不可思議ー、として述べて来たが、要は、根源の不可思議は、白痴的発想とすれば、自己としては、納得がいく、という結論に達した、今回の、萩原朔太郎論であった。

いいなと思ったら応援しよう!