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映画 「ボーはおそれている」 のボーの人間性について(ネタバレ有り)

⚠️この記事には映画「ボーはおそれている」のネタバレが含まれます

「ボーはおそれている」 という映画

表現の自由の最後の砦である配給会社、A24がまた奇天烈な映画を出したので私は当然のように見に行った。しかもあの「ヘレディタリー」「ミッドサマー」でお馴染み、アリ・アスター監督の最新作である。
アリ・アスターといえば、人畜無害そうな笑顔で世界中に呪いのような映画を振り撒いている一級指名手配犯として有名であろう。

世界中で去年から公開され、今年の2月に日本でもやっとのことで公開された「ボーはおそれている」
予告編やキービジュアルから、もういつものアリ・アスター節全開である。
以下あらすじと予告編。

https://youtu.be/GFslTVjwoSw?si=m4Dnv6hVOu7l42CW


日常のささいなことでも不安になってしまう怖がりの男ボーは、つい先ほどまで電話で会話していた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。その後も奇妙で予想外な出来事が次々と起こり、現実なのか妄想なのかも分からないまま、ボーの里帰りはいつしか壮大な旅へと変貌していく。(公式サイトより)

https://happinet-phantom.com/beau/

私は友人とヒューマントラストシネマ渋谷で鑑賞した。ほぼ満席であった。
わざわざヒューマントラストでアリ・アスターを観に来るだけあって、エンドロールが終わるまで席を立つ人は皆無だった。恐らく皆へレディタリーやミッドサマーを経験してきた者達だろう。面構えが違う。

X(旧Twitter)で流れてきた前評判では、3時間ずっと不快な映像を見せられる。訳が分からない。今までのアリ・アスター映画の中でも楽しくない映画。覚悟が必要などの触れ込みがあり、今回ばかりは私もオムツを装備し覚悟を持って鑑賞に臨んだ。
が、思ったよりもストーリーはしっかりしており、訳が分からなかったり不快な場面が続くだけの映画ではなかった。そういう映画はたまにあるけれど。

作中で描かれていたテーマやメッセージは、我々日本人には造詣のないユダヤ教の教えや考え方が深く絡んでいたらしいが、それを差し引いても示唆に富んだ内容であり、決して訳が分からないままの映画ではなかった。

そしてこれは個人的な苦言であるが、本作を「嫌なことしか起こらない3時間」「ひたすら嫌な気分になるための映画」「アリ・アスターの原液」などという簡単な言葉で片付けてしまう人はもったいない気がする。

細かい伏線やストーリーの考察、映画全体を通した感想などは他の人に任せるとして、今回は私が1番深く刺さった「ボーという人間の人間性」について述べていきたい。

ボーという人間

映画全編を通して、我々は画面の外側からボーを見続けることになる。
ボーは不安症のようなものを患っており、日々の生活で常に何かに対し不安を抱き続けている。この映画ではそんなボーに災難が容赦なく降りかかるのだが、これがとにかく理不尽である。
そして、ボーという人間は意思決定能力に欠け、この次々起こる事態に対し恐れ慄き、流されるままに行動しているのである。
作中ではボーがはっきりと何かを拒絶したり受け入れるシーンはほとんどない。目の前で起こる事態を、ただ受け入れる。一度も、彼が自分の意思で行動をして展開が変わったことはない。

終盤で、ボーが母親を手にかけると言う、作中で唯一と言ってもいい、ボーが明確な意思を持って行動するシーンがある。しかしこれも、すぐに怖気付き、謝り、無かったことにしようとする。
ボーがなぜそのような人間になってしまったのかというのは一応理由があるのだが、そのことに言及すると話がさらに複雑でややこしくなるのでここでは触れないでおく。

ボーの罪

映画のクライマックスにて、今までの総決算と言わんばかりに、ボーの今までの行動が掘り返され、裁かれるというシーンがある。
そしてこのシーンにおいて、ボーは有罪判決を受け、処される。
なんてひどい結末だと思った人も多いだろう。実際ひどい。ボーは何も悪くないのに。本当に悪くないのだろうか?

ボーは今までの自身の行いに対して「そんなつもりじゃなかった」「自分は被害者だ!」などと言う言葉で必死に抵抗する。しかしそんなこともお構いなしにボーの行動は次々と断罪される。
ここ、見ていて結構きつかった人もいるんじゃないだろうか。少なくとも筆者はここが見ていて1番しんどかった。
だって誰しも子供の頃に、悪気はないのに行動や実力が伴わなくて、結果として悪事になってしまい親や先生に怒られると言う経験、あるんじゃない?そんな時、どんな言い訳を並べても、大人の前では客観的な事実でねじ伏せられてしまう。というかこれはアリ・アスターが子供の頃に経験した事な気がする。
そして私たちが怒られるのは、目の前で起こる事に対し行動に移せなかった、もしくは移さなかったからに他ならない。
これは子供の頃だけでなく、大人になっても度々発生する問題である。仕事で失敗をした時、自分がどんな気持ちで居て、そこにどんなに仕方がない事情があっても、それを常に周りに汲んでもらえるとは限らない。私は結構これで悩んだ経験があるため、ボーの断罪シーンは涙なしには見れなかった(大嘘)。

結局、私たちは常に行動し続けることでしか周りを変えられないのである。

ボーを断罪する人々にとって、ボーの気持ちなど知ったことではない。言葉ではいくらでも取り繕えるのだから。

無害な人間

この意見に関しては、老害サブカルおじさん映画評論家である町山智浩が、自身のYouTubeチャンネルでこのようなことを言っていた。

「僕は何も悪いことしてませんよって、それが罪なんだっていう話なんですよ」
「それこそがいちばんの罪なんですよ 自分を捨てなかった 良い子で居ようとした」
「ボーが有罪になるのは理不尽だ あんなにいい人なのに、優しいのに、そんなことない 戦わなかったからですよ」

動画の50分ごろから

ひどい話である。
周りからの期待に応えよう、良い人で居ようとするのは人として誰でも持っている当然の心理である。なのに、良い子で居ようとしたから、周りに害を及ぼさないようにしたからと言って、何故断罪されなければいけないのか。

でも仕方がないがこれが現実である。映画内の理不尽は、現実にも起こり得る。
あなたのそんな心構えとはお構いなしに、あなたが行動を起こした、または行動を起こさなかったという結果しか他人は見ていないのだから。

良い人で居よう、無害な人間で居ようとして何も行動しないという事は、時として周りの人にとってよっぽど有害になるようである。

映画を観終わった後、こんなことを漠然と考え、一緒に見にいった友人3人にそれとなく伝えてみたら、あんまり共感を得られなかった(おそらく上手く言語化できなかったせいであるが)上に、こいつらときたら映画の解説サイトを見るためにすぐにスマホをポチポチし出す始末である。

誰かこいつらを断罪してくれ。


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