日常の幸せとはこういうことである
雨の前の湿気を帯びた銀杏並木の絨毯を踏みしめて前へ進む。しばらくすると、前を行く私と年嵩の変わらない青年とその父親の姿が目に入る。同時に、幼い時の秋の光景が一気に眼前に蘇ったような気がした。
「お母さん、見て。」
銀杏並木が連なる道沿いで、小学生の私がクルクルと回りながら笑う。
母親の表情や言葉の残像は、記憶の中でモヤがかかり見ることができない。しかし、思い出の扉を手のひらで撫でるような優しさも同時に思い出されるのである。
しばらくすると、秋だというのに夕立のような雨に見舞われた。幸い、高層階の知人宅の窓からその様子を見ていた。しかし、あの銀杏の葉のように、帰りは、私の靴のつま先まできっと、じっとりと濡れていくのだと思ったら、それも悪くないと思ったのである。
雪の積もる夜に、幼い弟を赤い子供用のソリに乗せて、歩いた道のことを思い出す。長靴の隙間から入った雪は、雪の結晶という言葉の美しさを失い、幼い体の体温を奪っていく。じっとりとそしてゆっくりと。それでも、生命体である私の体はそれに反するように熱を帯びていた。
赤くなった指と手のひらの間でソリのロープが滑る。確かに息をして生きている2つの命。私の背中を見ていた弟。いつの間にか抜かされた背も、いつの間にか、私のもとを去っていた日々も、今になると磨かれたガラスケースの中で輝いているようなのである。
地下鉄で、向かいの席に座った女の子とお父さん。私と父との思い出もまた、こうであってほしかったという願望を描き出しているようだった。
「お父さん。」
私は、いつもあなたを追い求めている。追いかけても掴むことのできない父からの愛。その愛を受け取っているあの子が羨ましかった。同じ駅で降りた時、いつまでも2人の背中から目が離せなかったのは、過去に置いてきた私の欲である。重ねることのできない欲である。それでもなお、それすらもなお幸せだと思うのである。
幸せとは、過去をもつものが唯一味わえる神様が与えてくれた、プレゼントだと思う。過去を思い出して、今を生きることを味わえる、このことが幸せなのだと思う。
いつか、今が過去になった時、また私は幸せを噛み締めるのだと思う。