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思い出のビーフシチュー

 今日は、選外となったエッセイを加筆修正して、ここに投稿して記録しておく。

 食卓椅子に座り、両足をぶらつかせながら、まだかまだかと昼食を待っていた昼下がり。小学校にまだ上がらないころの遠い記憶が急によみがえったのは、故郷を離れて久しいからかもしれない。母が愛おしそうに私を見つめた瞳の輝きが、今でも色褪せない思い出として心の宝箱に入っているように感じる。

 母は、調理師でもあり、パン作りの講師でもありいわゆる料理のエキスパートであった。ホテルの厨房で昼夜関係なく働いていたこともあった。500人以上の昼食を作っていたこともあった。料理という仕事を通して私たち姉妹を育ててくれたのである。すでに還暦を迎え引退してしまった今も家族のために、日常の食卓に彩りを与え続けている。

 そんな母が作ってくれた「ビーフシチュー」が私にとっての一生忘れられない思い出の料理である。初めて食べた時のあの感動を思い出すと胸がいっぱいになる。なぜならその味と思い出は、もう二度と作り出せないものであるからだ。研ぎ澄まされた子どもらしい繊細な味覚は大人になった今、少しずつ鈍くなっていくと日々感じる。その事実を認めたくないと同時に、どうしてもその味覚を一度だけでいいから取り戻したいとも思う。そうして料理に対する気持ちが、思い出のビーフシチューを通して、どんどんと深まっていく。

 私は今年、母とは違う道を歩きはじめて10年が過ぎた。しかしながら日常の中で食事をすることと同時に「料理をすること」は私の憩いの時間であり、母との思い出を反芻できる大切なひとときでもある。一方で、多忙な毎日の中で、料理をする時間を生み出すのは容易ではない。一日一日、「便利な世の中」を更新していく世界で、食事すらもサブスク化し「楽」と「時短」が台頭していくことは、本当に良いことなのだろうかと疑問に思う。手料理には手料理にしかない味わいがきっとあるはずだ、私はそう信じている。

 私は料理で母に敵うことはこの先ないように思う。敵わない相手だからこそいつまでも、母が作ってくれた料理の数々とその思い出を胸にしまい、背中を追い続けられるのではないだろうか。
「食べることは生きることである」という最初の礎を築いてくれた母の背中をいつまでも追いかけながら、日々の自分なりの「美味しい」を更新していきたいのである。

「今度帰ったら、あのビーフシチューを食べさせてね。」
一口食べた瞬間、どんな気持ちが蘇るのだろうか。きっと、失った子どもらしい繊細な味覚の代わりに、出合ったことのない新しい発見があると思う。そうして今、記憶の中のビーフシチューが、明日の活力になってくれると強く信じている。

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家出猫
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