『白日夢』(原作:谷崎潤一郎 1964年6月21日公開)を観て
谷崎潤一郎、なんかエロいらしいとか、著名な本の名前とか、そんな程度の知識しかない私がなんとも言えないこのタイトルとこの写真の映画を観てみることにした。この写真からどんな内容なのか、まぁ、いろいろと想像を掻き立てられるものはあったものの、観終わって改めてこの写真を見ると、口を開けていかにも悶えている女性、この様子は、なんと、歯の治療の時の顔ではないか(最初に出てくるシーン)。手元に見えるのは、治療に使う器具、ミラートップ、探針で、口の中をぐりぐりしてみたり、細いホースみたいなもので、口に水をかけて、口から水を滴らせたり、指で唇をいじりまくる、今、見るとこの写真は、少しウケる。歯の治療でこんな顔されたら歯医者さんもたまったもんではない、というか、溜まってしょうがないというところか。
この映画、ひとことで言うと、書いた人、製作した人、演じている人、みんな変態ですね。しかし、ここまで変態だからこそ、当時、前衛的で、みんな見に来たのでしょうし、ある意味、変態と天才は、表裏一体ということかと。
この映画、始まって10分近く、言葉もなく、タービンの音と共にひたすら歯科治療を受ける男女の写真のような悶絶顔を見せられ続ける。「なんじゃ、こりゃ」なんですが、その後、ひとりの令嬢(千枝子)と若い男性(順吉)、ふたりの患者が並んで診療用チェアーで仰向けに寝て治療が始まる、千枝子が先で、いきなり口の中をまさぐられ悶絶顔が始まる、その顔を隣の男・順吉がわき目でチラチラと観ているところに、順吉の治療も始まる、順吉は抜歯のためにノボカイン(局所麻酔)を打たれ意識がもうろうとしてくる、そして、直前に見た千枝子の『悶絶』から妄想が暴走し、順吉の白日夢へとつながっていく。
夢の中の登場人物は、歯医者(ドクトル)、千枝子、順吉の3人、ここからほぼ1時間、ドクトルと千枝子のSMプレイを観ることになる。Sは、ドクトルで、Mは千枝子、そのプレイを観ているのは、順吉で、順吉はSMプレイ中の千枝子を助け出そうとする。しかし、千枝子はひたすらドクトルのプレイに従い、逃げようとはせず、順吉はオロオロとするばかり。
ドクトルは、千枝子の手をロープで縛り、つり上げる、千枝子はひたすら悶える、次に、電熱線を腕に巻き付け、電流を通す、それに千枝子はひたすら悶える。場所を移して、キャバレーなのか、ダンスホールなのか分からないが、そこで歌を歌っていたかと思うと、デパートでドクトルに襲われ、脱がされ、逃げる中で、2階から1階に逃げるつもりで乗ったエスカレータが上り用で、下に下りても下りても逆向きなので上ってしまい、そこに倒れ込んで、そして悶える。およそ1時間奇妙な機械音と共に支離滅裂なストーリーの中で、ひたすら千枝子が悶絶する姿を観続ける。最後に、これまた何故かなんだが、洋服店の2階にある喫茶店にいた千枝子を順吉がみつけ、千枝子の元にいったところ、逃げ出そうとする千枝子を捕まえて、順吉が千枝子を刺し殺す。
ここで、順吉が夢から覚め、それが白日夢であることを自覚する、隣にいる千枝子は、「お手数をお掛けしました」とドクトルに言って、病院を去っていく。その際、ハンカチを落とし、それを順吉が拾って、千枝子を追いかけていき、帰るために自分の車に乗った千枝子に声を掛け、ハンカチを落としたことを伝えそれを渡す、千枝子はお礼とともに、「車に乗りますか」と言い、順吉を乗せて車が走り出したところでこの映画は終わる。
さて、感想であるが、正直、観るのが苦痛でしたですね、ある意味、夢なので、筋の通ったストーリーがないわけで、夢って、そういうことってあるじゃないですか、目が覚めると、なんで、夢ってこんな話なの的な感じとか、また、、言葉のキャッチボールもほぼない、これも夢でありがちで、なんでこんな会話だったのだろうかというやつ。ひたすら千枝子役の路加奈子が悶える姿を奇妙な音と共に1時間観るわけです。谷崎潤一郎は、耽美主義とやらで、耽美主義とは、『道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である。これを是とする風潮は19世紀後半、フランス・イギリスを中心に起こり、生活を芸術化して官能の享楽を求めた。1860年頃に始まり、作品の価値はそれに込められた思想やメッセージではなく、形態と色彩の美にあるとする立場である。』と書いてあるではないか。
つまり、この映画に思想やメッセージはないということか、キーワードは、『美』、『芸術』、『官能』、『享楽』なのかと、なるほどと。思想やメッセージはないとは言え、観てる方としては、この映像とキーワードで感じることはあった。この映画や、肉体の門の説明に出てくる『性の解放』言葉についてだが、戦前は、女性の裸体の映像は、タブーだったようで、戦後、これらの映画のように女性の裸体を映像で出すということは、画期的であったのであろうということ、そういう意味では、社会に対するカルチャーショック的なことを与えたかったのではないかと。
また、千枝子は、さまざまなプレイに対して、ある程度受け入れている感じも見受けられたんですね。誤解を恐れず、勝手なことを言わせてもらえれば、男性も女性もある程度サディスティックであり、マゾヒスティックでもあるということ、お互いの享楽を得るためには、この2つの気持ちが必要だということを言っているのではないかと思ったわけで、もしかしたら、これは、多くの人が言葉にしないが、本質的なものかもしれないと。
訳の分からない映画ではあったが、我慢して観ていると何か感じることはあるものである。
ちなみに、81年版の愛染恭子が主演のも早送りをしながらではあったが、観てみた、ストーリーのなさと気味の悪さと夢っぽさでは64年版、自分も現実にこんなことに出会えるといいかもとか、ポルノ映画として楽しみたいのであれば、81年版を観るのがいい。
最後に、観たことない歯医者さん、ぜひ、これ観てみて、そして一言、『歯医者として、これはないわ』と言って欲しい。
では、また。