「料理の四面体」:本を読む生活
「おいしそうな本」という言葉で思い浮かぶ一冊があります。
所詮「字の書かれた紙の束」でしかないものに、「おいしそう」なんて形容詞がふさわしいのかどうかはともかく、読んだだけで、食卓の香りや盛り付けられた食べ物の光景、さらにはその味までもが頭に浮かんでくるようなものがあるのだと思います。
大学生のころに出会ったこの一冊は、まさにぼくが思う「おいしそうな本」のひとつです。
この本では、世界各地の料理に見られる「法則」や、国や地域が変わっても普遍的に存在するであろう原理・原則を、あじの干物やローストビーフ、サラダからステーキに至るまで、エッセイストであり、とりわけフランス文化に造詣の深い著者・玉村豊男氏が、幅広く話題を広げながら説明しています。
ぼくが最も印象に残っているのは、実は本編ではなく、冒頭に書かれたごく短い一節です。
この本のはじめに、著者が20代の頃に旅したというアルジェリアでの体験談が書かれています。
ヒッチハイクの最中、疲労困憊となっていた著者を見かねた人々が道端で振る舞ってくれたという素朴なシチューの作り方は、思わず生唾どころかコップに注がれたお冷をぐいっと飲み込みたくなるような、味覚と嗅覚を刺激される名文です。材料として用いられたマトン、トマト、そしてにんにくの香りだけでなく、鍋を煮る焚き火の音や、あたり一面に漂っていたであろう煙の香りまでもが想像できるほどです。
クックパッドやレシピを見ながら料理をすることはよくありますが、エッセイ本を片手に調理した経験というのはほとんどありません。
しかしながらぼくは、これまで何度もこのシチューのくだりを読み、その描写が頭から離れず、まだ足を運んだことのない異国の料理に思いを馳せながら、自分なりにそれを再現しようと試みてきました。
日本人が作るごく普通の家庭料理として、ほどほどに美味しくなる自信はありますが、それが実物の風合いに近しいものかどうかはわからず。五臓六腑を刺激されたこの一文に対する答え合わせは、いまだに叶っていません。
そう遠くないうちに、ぼくはこのアルジェリアのシチューなるものを食べに、海を越え異国の地を歩きたいと思っています。
読書という概念の中に「味わう」という行為が含まれるのかどうかはわかりませんが、ぼくにとってはそれが叶ったときこそが、この本を真に読み終えた瞬間なのでしょう。
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