NODA・MAP『 フェイクスピア 』こんなに悲しい物語なのにこんなに優しいのはなぜなんだろう
長い時をかけて言葉をさがしもとめ、見つけていく物語です
こんなにも悲しい物語なのにやるせないほど優しい。
けれどあまりに痛くて心が苦しくて戻ってこられない。
虚構と現実、生と死の境を生きるような作品でした。
※ネタバレがあります
1 目に見えるもの
「いちばんたいせつなことは、目に見えない」
『星の王子さま』の有名なこの言葉は、目の見えるひとだから言える言葉だと野田さんは指摘します。
「目が見えないひとにとっては、目に見えない「音」が全てだ」
という台詞は突き刺さりました。サン・テグジュペリがどんな意味でこの言葉を言ったのか?という文脈を完全に無視して、わたしは都合の良いようにこの言葉を消費してきたことに気付かされました。
高橋一生さんのありかたも心ゆさぶられます。
高橋さんは、メイクも衣装も男性としての身体のままで、『リア王』の末娘コーデリアや『オセロ』のデズデモーナ、『マクベス』のマクベス夫人の台詞を言って、一瞬にしてその女性の魂を乗りうつらせます。
見た目では明らかに年上の橋爪功さんの父親を演じるあり方も、「目に見えているものはウソかマコトか」を観る者の認知をゆさぶるものでした。どれだけ自分が「見る」ことに依存して認知していたかを実感させられました。
言葉(声)だけで別の人物・別の時間軸にめまぐるしく移行して世界観を大きく転換できるのは、演劇だけが持つマジックです。たったひとつの言葉にいわば引きずられて、導かれ、飛ばされ、誘われている。いいかえると、欺かれて、だまされて、罠にはめられていると言ってもいいのかもしれません。そのような瞬間に立ち会ったとき、いま居る客席から、別の世界に飛べる。だまされればだまされるほどに、とても気持ちが良いのです。居ながらにしてもうひとつの世界を生きられることは演劇の与えてくれる至福です。
演劇は、至福であると同時に、修羅の地獄でもあります。
舞台の上で、あたかもパンドラの箱から飛び出したような全ての悲しみと苦しみも引き受けるからです。とりわけ、この作品のラストは胸が張り裂けそうでした。
2 コトバの一群
なにもかも飛ばしてラストについて書きます。
『フェイクスピア』のラストの十数分間。
すべてはこのためにありました。
これから御巣鷹山の尾根にぶつかることを知ってるのにこの飛行機から降りられない感覚で、身体が翻弄されてぎゅううと固くなって震えてきて息が苦しくなって、汗もかいてきたのはリアルなほどの恐怖を感じたからです。
それはあの日航ジャンボ機の機長さんと副機長さんたちが墜落の直前までボイスレコーダーに遺した「コトバの一群」の言葉の力です。でもそれ以上に高橋一生さん、川平慈英さん、伊原剛志さん、アンサンブルのみなさんの身体が持つなまなましさが、身体のかたまりが、観るひとの心を巻き込むのです。
これは矛盾です。見えているものが全てではないとさんざん体感させておきながら、最後の最後に、見えているものが全ての舞台を見せつけるのです。これが演劇のマジック、というより、劇作家としてできる最大限のウソだといわんばかりに。かれらの身体を見て声を聴くことで、遺されたマコトの言葉の意味がやっとわかる。腑に落ちる。理解できるのです。虚構の世界であのコトバがリアルなものとして届くのです。
わたしたちは神ではないし、神の使いでもないし、イタコでもない。だから、亡くなったひとが何を想っていたか本当の言葉を永遠に聴くことはできないのです。でも知りたいと思う。ボイスレコーダーを見つけたいと願っている。その願いがウソ(フェイク)を支えている。フェイクを創り支えるのはひとの心です。フェイクの極みである演劇が演じられ続けているのもひとの心が求めているからなのでしょう。
3 声を伝える
野田秀樹さんの書く作品は、照れくささゆえなのか斜に構えたり煙に巻いたりとらせん階段の一番遠い外側をぐるぐる走り回ってみせながら、らせん階段を降りていった着地点はいつもいつもいつもいつも切なく悲しいのです。
2022年2月25日の読売演劇大賞の贈賞式のスピーチで、野田秀樹さんは最初の戯曲から50年、死者と対話しながら書いてきたと仰ってました。
白石加代子さん演じるイタコ見習いのアタイは、きっと野田さん自身の姿なのでしょう。見習いのまま昇格できないという設定は、野田さん自身の諧謔みある自画像なのかもしれません。「ひとりではなにもできない」という台詞に、野田さんの孤独感が滲んではっとしました。
「愛してる」や「好きだ」という言葉は(お芝居では言ってほしいし聴きたい言葉だけど)実際のところ、生きるか死ぬかの瀬戸際には絶対に言えないし聴けないだろうと思います。なぜかわからないけど、人間は、これだけ言葉によって文明を築き上げながら、いちばん大切なことは伝えられない悲しい運命を背負っているからなのでしょう。
その悲しみを野田さんは舞台に乗せてくれるのです。
2019年の『Q:A Night at the Kabuki』は届かなかった言葉の物語
2021年の『フェイクスピア』は生きるために語り尽くした言葉の物語
どちらも発信者の命が尽きた後、長い時間をかけて相手に届けられます。
野田さんの作品を好きなのは、亡きひとの心を身体を伴う言葉として息づかせる優しさと観客の想像力への信頼を感じるからです。
4 鎮魂の祭礼としての演劇
『フェイクスピア』の冒頭、高橋一生さんが語る問いは、アメリカの教会で語られた有名な一節です。ミュージカル『DEAR EVAN HANSEN』でも引用されていました。
この問いの答えは、「音はしない」です。
なぜなら、聴く人がいなければ音は存在しないからです。
木は倒れた時に空気を振動させるけれど、その振動した空気が人の耳に伝わった時はじめて「音がする」と認知されるのです。誰にも聞こえない音は、誰にも認知されないから、音ではない。認知科学ではそのような答えになります。
ならば、誰にも聞かれなかった音を人の耳に入れよう。
誰にも聞かれなかった言葉を俳優の身体と声を使って観客に届けよう。
そう野田さんは考えたのでしょう。
ほんとうにやってのけてくれました。
あのラストの十数分間後、たまらなく涙が流れました。
となりで観ていた母も泣いていました。ふつうお芝居を観て泣くような人ではないのです。でも泣いていたのは、あの墜落事故が起きてからのことを知っているからです。搭乗していた方々の縁者ではありません。けれど、同時代人としてあの日々を生きていました。あの事故のあと、わたしの住む街でも、この事故で亡くなった方のお葬式がたくさんありました。母は一晩に何軒も弔問に行った、葬儀場が足りなくてすぐにお葬式ができなくて、何日か待たされているおうちもあった、夏の暑い日にまちじゅう黒い服の人であふれていたあの光景は忘れられない、と言っていました。
あの機長さんが気の毒で気の毒でならなかった、と母は言います。直接的にはなんのご縁もない方だけれど、でもあの事故以来、心にひっかかっていたと。だから今日こうして舞台に乗せて言葉を聞かせてくれてよかった、長年ずっと心の底におりのように溜まっていたものが軽くなってほっとしたと、母は言いました。
お盆休みの大阪便に搭乗された方には関西に縁のある方も多かった。大阪公演だからなのかはわかりませんが、あのラスト、劇場はすすり泣く嗚咽の声で満ちていました。あの日、客席に遺族のかたも偶然いらしていたとSNSで目にしました。ありがとう、と書いてらっしゃるのを読んで、ああ、と思いました。
言葉にしてもらえることで魂が鎮まる。自分では手の届かない心の奥底にあるものを掬い上げてもらえる。これは、演劇という虚構だからこそできることだと思います。
演劇は神に捧げられたものだということを思い出すのです。亡き荒ぶる魂を鎮める、鎮魂の祭礼としての性格が演劇の本質のひとつです。それをよく知る野田さんだからこそ、神がかった熱狂を批判的にみつめるロジカルなまなざしを持つ一方で、舞台にはある種の宗教的な神聖さが感じられるのです。人間というちっぽけな存在を、ひとりという単位で丁寧にみつめて、すくいあげて、形をもたせて、語ることで少しでも魂を慰めようとしてくれます。あたかもイタコのような、イタコになりきれない野田さん自身の真摯な祈りを強く感じるのです。
物語の最後にたどりつく果て、だれもいない世界の底から舞いあがる一葉の言の葉に宿るあまりにも繊細なむきだしの命と、どうしてもこの言の葉を書き留めなくてはいけないと思った使命感が伝わってきます。あまりにあまりにも強い痛みと静かな怒りが心と頭と身体に一気におしよせて、共に生きた世界の優しさと痛みと切なさの空高くへと心が飛びながら、決して他人事ではなく自分自身の心の奥底深くまで響くのです。
最後の最後まで生きようとしたひとびとの「コトバの一群」に対する畏敬に近い感情、持てる才能をもってしても限りある無力感もさらけだして舞台にのせてくれたのが『フェイクスピア』だと思います。野田秀樹さんに心から感謝します。
5 キャストのこと
配信を観て感じたのは、高橋一生という俳優がというより、そこにひとりの人間が生きていると感じたのです。芝に居るがごとくというよりもさらに色濃いありかたで強く生きている姿にものすごいエネルギーをもらいました。人間ってただ生きているだけですごいものだと思う。そんなシンプルなことを体現してくれて本当に感謝します。生きててくださって本当にありがとう。
星の王子様と伝説のイタコを演じた前田敦子さんの美しい声としなやかな身体性は人類の希望でした。川平慈英さんと伊原剛志さんの存在は"緊張と緩和"でいうなら緩和チームで、話が見えなくてついていけなくなりそうな序盤でアシストしてくださってありがとう。ラストの副機長ふたりが機長を支え、共に生きぬこうとする姿の身体の厚みが説得力を与えてくれたんだと感じます。橋爪功さんは言葉を発するだけで世界の深淵をのぞき込むような心地がしました。白石加代子さん、あの声、あの身体、同時代に生きられたことに感謝します。
読売演劇大賞贈賞式で、高橋一生さんが壇上でキャストとスタッフの方々全員のお名前を呼んで「支えてくれたスタッフの皆さん一人でも欠けたら、僕はここに立っておりません。この賞を頂けたのはこのカンパニーです」とおっしゃったスピーチが胸に沁みました。本当に誰ひとり欠かすことのできないキャストのみなさま、スタッフの皆様、素晴らしい舞台を届けてくださって、ありがとうございました。