赤い灯に
新木場駅から東京方面に見える夜景。赤く明滅する無数の航空障害灯。そういえば明滅するのだ、と今思い出した気分だけれど、あの景色を、いつかの自分は見ていたように思う。春の夜を今でも思い出す。高円寺まで車を走らせた夜を。共依存になれなかった関係を。
別に年が明けたって何も変わらないのだ、と渇いた笑いが漏れる。正面には遠くスカイツリー。どこに行けば、いつになれば自分は楽になれるのだろう。自由になれるのだろう。強い悲観や絶望ではないけれど、ただ諦念が自分の小さな小さなコップに満ちてゆく。明けましておめでとうございます。
あの時どんな道を通って目黒線まで出ていたのか、よく覚えていない。緊急事態宣言下の車もまばらな首都高とはいえ、必死だったから。隅田川沿いを、スカイツリーに憎々しげな目線を向けながら抜けたこともあった気がするし、新木場の辺りを抜けたような気もする。もうすっかり思い出せないし、別にそれでいい。これはただの自己満足で、自傷行為なのだから。
年末年始、実家に帰っている時にぼんやり見ていたNHKのドラマ。境界性パーソナリティを扱ったその演技は、あまりにも生々しかった。それは自分の姿であるような気もしたし、確実に誰かの存在を思い起こさせた。心療内科に通っていたようなことも言っていたなと思い出す。そんな記憶、一体どこの引き出しにしまっていたのだろう。共依存になれなかった関係。自分は未だにいつかの夜を抜け出せず、季節はただ数字が変わるだけで永遠にループを描いている。直接的な自傷行為に走らないのは、ただ生理的嫌悪感が壁になっていただけだろうなぁとぼんやり考える。そうやって深みに足をチャプチャプ入れて遊んでいるだけなのかもしれない。最近、自分には、自分が自分を偽っているのか分からなくなってきた。
てっきり自分は、あの時の春にどこかおかしくなってしまったのだと思っていた。けれどそれ以前から兆候はあったし、あのドラマを見るに、以前はそれが顕在化しなかっただけなのではないかと思うようになった。果たしてそうだとしたら、あの春は自分にどんな影響を与えたと言えるのだろう。プラスの意義だけが残るのか、逆なのか。
これを書いている自分は決して悲観的でも絶望的でもなくて、ただ自分に見えている世界を真っ直ぐに捉えようとしているだけなのだ。真っ直ぐなのにどこかにズレている。最初は小さなズレだったのに、いつしか大きくなり過ぎてしまった。そう考えることにもバイアスがあることは理解できる。理解できるけれど、それならばどうしろと言うのか。自分自身のこの有様に目を背けるということが、自分にはできない。
ただお腹が空いているだけかもしれない。オトナって生き物になり損なってしまった感じがする。