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ランニングをしていたら、いつの間にかインナーチャイルドのケアをすることになった話
今日の朝、ランニングを始めたときに、遠くに青い山の稜線が見えた。
まさか、と思った。なぜなら今、私が走っている場所は関東で、街の中で、山なんて見えるはずがない。
しかし目の前にはでこぼことした山の稜線のようなものが見えている。
私の育った小さな町は、四方が山に囲まれている、自然が豊かなところ。子どもの頃はそれが当たり前だったので、何も疑問にも思わずに生活していた。
中学生のときの家庭科の先生が、授業で言っていた言葉を思い出す。「この街にお嫁に来て(時代的にこういう言い方でした)、360°どこを見ても山に囲まれていて、私はもうこの町から出られないという閉塞感をありありと感じさせられた。」その先生は都会から田舎へ結婚を機に来て、山に囲まれたことで、自分の居場所が限られたように感じたという。
当時中学生で、山に囲まれているのが日常だった私にはあまり響かなかった。むしろ、山があっていいじゃないの!とまで心の中で思っていた。
そして今日、見えるはずのない山が私の前に現れたのだ。
急に嬉しくなって、ランニングをしている脚が自然と速くなる。下り坂を下りていったら、まるで蜃気楼のように見えていたはずの山が消えていた。
そこには建物、道路、川、街路樹が続いており、空が広がっている。
当たり前だが、ここは関東平野だ。
話は変わるが、私は現在、うつ病の治療中だ。実は2度目(1度目は適応障害)なのだけれども、今回の原因はあまり明確ではない。だからうつ病と診断されたのかもしれないが。たくさんの役割が私の日常にはあって、その役割に合わせて付き合う人もたくさんいて、話題も違っていて、やるべきことがいくつもあって…という生活がいつの間にかストレスになってしまっていたようで、体調を崩してしまった。
ストレスのひとつに、夫のきょうだいが頻繁に実家に帰ってくるというものがあった。私は夫の両親と同居している。同居を開始した頃は夫のきょうだいはあまり帰ってこなかったのと、帰ってきても友達と飲みに行くのであまり顔を合わすこともなかった。
コロナ禍が収束し始めた2年前くらいから、月に2回、多いときは毎週末、夫のきょうだいが実家に帰ってくるようになった。私は夫の両親も含めた全員の家族分の休日の夕飯を作ることになっているので、夫のきょうだいが帰ってくるということは、必然的に大人1人分の料理を増やすことになる。しかも友達と飲みに行くことはなく、必ず家にいる。最初の頃はお客さんなので、おもてなしをせねば、とはりきって料理を準備していた。しかし、毎週となると、「なぜ??」の気持ちしか湧かなくなってくる。
きっと「いただきます」や「ごちそうさま」、「ありがとうございます」などの言葉をかけられたらよかったのかもしれない。または食後のデザートを持ってきてくれるとか。当たり前のように席に着き、当たり前のようにご飯を食べている状況に私の気持ちが追い付かなかったのだろう。いつしか、おもてなしの心は消え、なぜ今週も来るのか?という怒りに近い疑問となり、果ては病気になってしまった。
話を現在に戻そう。
今日の朝、山の稜線の幻が見えたことで思い出した中学校のときの家庭科の先生は、今の私なのだと、ランニング中に気付いたのだった。
私はもう山に囲まれた故郷には戻らず、山の見えない平野で暮らしていくんだ、という風に思ったのだった。それと同時に、なぜ夫のきょうだいに対してこんなにもストレスに感じるのかがようやく腑に落ちた。
私は、夫のきょうだいが羨ましいのだと気づいたのだった。
30代の独身であることは置いておいて。(結婚は個人の意思ですからね)
いつでもすぐに帰れる実家。
いつでも受け入れてくれる両親。
子どものように過ごせる空間。
私もすぐにお家に帰りたい!家族に甘えたい!子どもみたいに過ごしたい!!という自分のインナーチャイルドに初めて気付いたのだった。子どものように振舞いたい願望があるのに、現実の私は母で、妻で、嫁(この言葉大嫌いだ)で、やることが無限にある。本来ダラダラしたいのに、18時までに人数分の夕飯を作って食後のフルーツを出して食器を片づけて、、、。心の中の子どもの声を無視し続けてしまっていた。
私のインナーチャイルドに気付いたら、途端に涙がぽろぽろ出てきたのだった。最近、全然涙を流すことができなくなっていたのだけれど、本当に久しぶりだった。そしていつもは高齢の方や犬の散歩コースになっている並木道が、涙を流しているときだけ、不思議なことに無人だった。そのため、思いっきり泣くことができた。しかもランニングをしながら。
インナーチャイルドに気付いたら、現在の私が、インナーチャイルドの私を抱きしめるとよいと本で読んだことを思い出した。とても傷ついた子どもの私がいて、抱きしめた。自分の中の寂しさを感じている年代がいくつもあるように思い、さみしそうな年代の自分を片っ端から抱きしめていった。
18歳から一人暮らしをして、さみしいときも、就職してパワハラにあったときも、失恋をしたときも、東日本大震災で生活が大変だったときも、トラブルに巻き込まれたときも、残業続きのときも、たくさんたくさん頑張って乗り越えたね、偉いね、と最後はチャイルドではない大人の自分まで抱きしめた。
自分のがんばりや、生きてきたことを自分が肯定したくなったのだった。
ランニングは瞑想のようだと毎日感じている。
まさか泣きながら走るとは思わなかったけれど、なぜ私は夫のきょうだいにストレスを感じていたのかが分かってよかった。夫のきょうだいは私に鏡のように私の課題を見せてくれていたということだった。
心のモヤモヤが自分の中ではっきりしたというか。私はただ料理をすることが嫌なのではないと何となく思っていたのだけれど、本当はもっと子どもみたいになりたかったんだな、と気付けたことはとてもよかった。
これからの生活や体調がどのように変化するか、じっくり観察していきたい。