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働く女性の介護体験記(3) 母の人生と自分の人生

さて、私が母を介護した時の体験をお話しするシリーズの3回目です。

今回は、母が手術を受けて後、集中治療室(ICU)から一般の病棟へ移り、そして、自宅に帰るまでに私が体験したことです。

結論は、「母を一人で介護をすることになる」という現実を受け止めることが難しかったということです。

今回のメッセージ
働く女性が一人で介護をすることを引き受ける覚悟には時間がかかる

1:集中治療室から一般病棟へ

母と私達家族は、人工呼吸器を装着しない、という決断をしました。

しかし、その後、母の状態は奇跡的に回復へと向かい、ICUを出ることができるようになりました。

そして、一般病棟に移る日がきました。

私は少しうれしくてワクワクしていました。母もICUを出る時は嬉しそうに私と言葉をかわしてくれて、穏やかでした。

ところが、一般病棟へついてから、母の態度が急変したんです。

感情的になって、「だまされた!家に帰ると言っていたのに」と言い出しました。本人は退院するつもりだったのです。

混乱した母はベッドの上でじたばたと暴れ、ベッド柵を乗り越えて降りようとまでします。

抑えるのに本当に苦労しました。

これは、手術をした後によくみられる「せん妄」という症状です。術後に、精神的に不安になり、幻覚や妄想などがでます。

母もこの「せん妄」の状態に陥っていたんです。

この時を境に、母の人格がすっかり変貌してしまいました。

2:精神的に不安定になっていく母

このせん妄は、人によっては1週間ほどでなくなるのです。

母の場合にはまったく消える気配がありませんでした。

随分たってから、聞いたことなのですが、母の場合は10時間以上に及ぶ手術のために、脳の血流が極端に低下し、回復に時間がかかり、せん妄の状態が普通よりも長く続ことになったらしいです。

話をもどすと、一般病棟にもどったばかりの母は、理性的に物事を考えることができなくなってしまっていたんですね。いつもはとても合理的な考え方をする母だったので、180度人格がかわってしまったんです。

今思えば、たぶん母はなれない環境で、自分のおかれた状況を理解することができず、こわかったのだと思います。

だから、最初は痛みを伴う処置をすべて拒否していました。それでも、苦しくなってくると、あきらめてその処置を受け入れていきました。

ただ、母の立場を考えれば、母がいかに怖かったのか、私にはわかりました。

心電図の電極が胸に貼られ、酸素のチューブが鼻に入り、腕には点滴の針が刺さり、胸には心臓と肺につながった管が2本刺さっています。

そして、尿管はカテーテルでつながれ、足の付け根にも化膿した部位の廃液を流すために管が入っています。

こんな状態であれば、母でなくても気が狂いそうになるだろうなと思いました。

母は我慢ができなくなり、管を抜いたり、電極を投げたりして、看護師さんを困らせていました。

ある日、母は胸腔に入っている管を抜いてしまいました。これはとても危険なことです。いよいよ、看護師さんは母の両手をベッド柵に縛りたいといいました。

私は、両手を拘束されてしまえば、母の精神状態はまちがいなく悪化すると思いました。それは絶対さけたかったので、私は仕事を辞めて24時間つきそうことに決めました。

しかし、精神安定剤を処方してもらっても、母の精神状態は一向に落ち着いてくる気配はありませんでした。

このことに私は不安を覚えはじめていました。

3:これから母はどうなるのか

実は、この母の不安定な精神状態は、6か月以上続くことになるのですが、その当時私はそのことを知る由もありません。

母はこれから、どうなるのだろうと、私は不安でしかたありませんでした。

そこで、ある時、主治医の先生に聞いてみることにしました。

「先生、私の母の(精神の)状態はいつごろ回復するのですか?」

先生は、それはわからないといいました。

なんとか、手がかりがほしくて、私は先生にもう一度聞きました。

「正確でなくてもいいんです。先生のこれまでの経験からでいいのです。どのくらいだと思いますか?」

先生は「たぶん半年後には回復すると思います」と言われました。

とりあえず半年かと思いました。かと言って確証があるわけではありません。

その時に、病院に見舞いに来てくれた元同僚が自分の知り合いの話を知り合いの話をしてくれました。

「私の知り合いのお母さんで、90歳すぎだけど、手術の後、一旦寝たきりになったけど、しばらくしたら、もとのように歩けるようになった人いたよ」と励ましてくれました。

それでも、その話は当時の私には他人事にしか聞こえず、全く響かなかったのです。

そんなある日、看護師さんの一人が私の母の病室にきて言いました。

「あの〜、介護保険の申請なんですけど、病院にいる時に申請した方が介護度が良くでるのでるんですね。それで、私、市役所に連絡しておきましたから」

この看護師さんは、親切に私が母の介護保険の申請をしやすくするために、市役所に連絡をしてくれたんですね。

でも、それを聞いた時、私はいらっとしたんです。そして看護師さんにとてもひどいことを言いました。

「介護保険を申請するのは、看護師のあなたではなく、私たち家族ですよね。勝手なことしないでくさい。」

その看護師さんは、あわてて「すみません」と言って下がっていきました。

私はそう言ったあとで、看護師さんは親切でやってくれたのに、なんで自分はそれに腹がたったんだろうって、思ったんですね。

そして、気がついたんです。

私は、自分が母をこれから介護することになるという現実を、受け止めたくなかったんです。

4:母の介護と私のキャリアと

私は小さいころから母に「女性でも男にたよらずひとりで経済的に自立するべきだ」という強い信念のもとに育てられました。

同時に母は「自分が子どもに世話になって迷惑をかける」ようなことは絶対にしたくないといつも言っていました。

私もだから、母を介護して自分のキャリアを犠牲にする日が来るとはつゆも考えていなかったんです。

しかし、術後は、母は人格が変貌してしまい、身体的にも精神的にも私に100%依存する状態になってしまったんです。

これは想定外で、私はまったく心の準備ができていなかったんです。

当時私は50代半ばであり、大学教員としてのキャリアのど真ん中でした。

ここで母の介護に自分の生活を全振りすれば、自分のキャリアを犠牲にすることになるのか、ということも頭をよぎりました。

5:介護からは逃げられない

子育てと親の介護、どちらも世話をすると言う意味では同じです。

違うのは、子育ては子供が育っていくという喜びがあるし、予測が可能なんです。ところが、親の介護は予測がつけられないし、そして衰退する一方なんです。

私は長いトンネルに入ってしまったような気がして、途方に暮れていました。

そんな時、母のからだの状態が少しずつ悪化してきました。食事を食べないので、栄養状態が悪くなってきたのです。

腕からの点滴からでは少しの栄養しかはいらないので、胸にある中心静脈という太い血管から栄養を入れるための処置もしてもらいました。

それでも、私には母がだんだん衰弱しているようでした。そして、私にはそんなに長くはもたないように見えたのです。

これはいよいよ母の最期なんだと思いました。

であれば、私は母を家へ連れて帰ろうと思いました。

慣れない病院で辛い思いをさせるよりも、最期は自分の家で母を思い残すことなく、過ごしてもらおうと思いました。

主治医の先生の反対を押し切って、看護師でもある私は「大丈夫です。なんとかやれます」と言って退院しました。

ところが、自宅へ帰った時、最期だと思って連れて帰った母の顔がみるみる生き返ってきたんです。

そして生き生きとした顔で興奮しながら言ったんです。「ああ、(家に帰ってきて)天国みたい。」

しかし、私はその母をみて素直には喜べなかったのです。

この時の私の正直な気持ちは「えっ、この生活いつまで続くの」ということでした。

そんな自分にどこか罪悪感を感じてはいましたが。

そして、ここから私の母に対する在宅介護の第1章が始まることになります。

ではでは。また。


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