一杯が思い出
社会人になって2ヶ月が経った。
体が大人に馴染んできたからには、どうしても叶えたい夢がある。
そう、BARである。
何色もの酒と言葉が行き交う大人たちの社交場。揺れ動く雰囲気に包まれた、薄暗く、そして眩しい素敵な場所。
社会人としては、そんなBARに行きお酒を嗜むというイベントに憧れないわけにはいかないのだ。
さっそく隣駅にあるBARに足を運ぶ。
オムライスが美味しいため、BARとは知らず、昼食時には数回足を運んでいた。
もちろん日暮れ以降は近寄ったことすらない。
オムライスに頼れないと思うと、いつも気軽に開けていた木製の扉がやけに大きく見えた。
いざ夢の国へ。
「いらっしゃいませ」
カランコロンと音を立て店へ入ると、すぐさまカウンター席に案内される。
緊張感そのままに、ふと店の奥へ目線をやると、4つ隣の席で、白髭を蓄えたダンディーなオジ様が、パイプを片手にマスターとしっとり喋っていた。
…。
……やめてくれよ。レベル高いよ。実在するのかよ。絵に描いたような常連風のダンディーなオジ様。
幽霊を見たら、こんな気持ちになるのだろうか。
幽霊は居ない派、もとい居て欲しくない派の僕の、カクテルを注文する声は震えていた。
マスターがシェーカーを振る間に、打開策を頭に巡らせるが、僕は肝心の除霊技術を持ち合わせていなかった。
マスターがカクテルをグラスに注ぎ始める。
待てよ。そもそも彼は本当に元からダンディーだったのだろうか?
そんなわけがない。BARという夢の国の魔法を用いた普通の人間に違いない。白髭もパイプも、BARから出てしまえば、煙のように消え失せるんだ。
幽霊と横並びにして怯えて損をした。BARの威を借るダンディーめ。
「お待たせいたしました。チャイナ・ブルーです」
目には目を歯には歯を、ダンディーにはダンディーをだ。
己の考察を信じ、僕も妻子持ちのイケオジのフリをする。これまで飲んだことのないような青い色をした液体を不安がる暇はない。
マスターへ軽く会釈をし、グラスを傾ける。
どうだオジ様、俺の髭とブランド葉巻が見えるかね?
ちらりと横を見ると、オジ様は平気な顔をしてマスターとの会話を楽しんでいる。
大人のやせ我慢ほどみっともないものはない。
聞き耳を立てていると、どうやらオジ様は先日息子から誕生日プレゼントを受け取ったらしい。 口角が上がりっぱなしで、液体すら入る隙間がない。
負けちゃいられない。慌ててダンディーを演出する。
わかるぞオジ。息子からのプレゼント嬉しいよな。俺も先月息子から手紙と似顔絵を貰って飛び上がったぞ。
妻子持ちってこんな感じで合ってるだろう?
いや、ダンディーな妻子持ちは飛び上がって喜ばないか。渋くないもの。
でも、普段ダンディーなのに飛び上がって喜ぶような可愛げがあったほうが、平常時のダンディーが際立って倍ダンディーなのでは?
そうに違いない。ずっとダンディーって絶対体に負荷がかかるもの。無理をしてダンディーをし続けてもダンディー生命が蝕まれていくだけだ。
「ごちそうさまでした。また来ます。」
僕の初BARは、オジ様への醜い対抗心と、ダンディーへの拙い考察だけで終わった。
ため息をつき、アゴへ手をやるとザラりと音をたてる。BARの魔法の名残か、と思いきやただの無精髭だった。
また来よう。
BARに慣れるのが先か、仕事に慣れるのが先か。
無意味な賞レースが幕を開けた。