「敦煌の莫高窟が世界遺産として評価される理由」世界遺産の語り部Cafe #8
本日は、中国🇨🇳の世界遺産【敦煌の莫高窟】についてお話していきます。
文化遺産の登録基準を全て満たす世界遺産
「雲崗石窟」、「龍門洞窟」とともに中国三大石窟に数えられる敦煌の莫高窟は、ユネスコ文化遺産の登録基準(Ⅰ〜Ⅵ)まで全て満たしている、稀有な価値を持つ世界遺産です。
莫高窟の「莫」という字は、“砂漠”の「漠」の字からさんずいが落ちたもので、意味としては‘’砂漠の高い崖にある窟‘’といったところでしょうか。
文字通り、周辺をゴビ砂漠に囲まれた敦煌は、長年に渡って「シルクロードの中継地点」として重要な役割を果たしてきました。
古くは『西遊記』のベースとなった『大唐西域記』においても、「玄奘(三蔵法師)」が目的地のナーランダ僧院から帰路の途中、この地に逗留していたと記されています。
世紀の大発見となった‘’敦煌文書‘’
19世紀末、敦煌の莫高窟では王円籙(おうえんろく)という人物により、一万点を超える古文献が発見され、それらはイギリスの探検家オーレル・スタインに売却されることになります。
発見された古文献については「敦煌文書」といわれており、当時の生活、政治について研究する上で貴重な参考資料となっています。
敦煌文書は膨大な量に上るだけでなく、漢文を始めとして、チベット文、古代トルコ文、ホータン文、ソグド文、サンスクリット文など実に多言語に渡る資料が現存し、「敦煌学」といわれる研究分野が生まれるほどの歴史的発見となりました。
様々な言語で書かれた文書が納められていることからも分かるように、シルクロード沿いのオアシス都市として繁栄した敦煌は、多岐に渡る人種と文化が混在していました。
楽僔は弥勒菩薩の幻を見たか
一方で、仏教世界を代表する至宝と称される莫高窟の建造については、このような伝奇的逸話が存在しています。
西暦366年、楽僔(がくそん)という僧侶が西方浄土に向かう旅の途中、ゴビ砂漠を横断していたところ、敦煌近くの三危山(さんきさん)で一服することにしました。
そこには特別な泉が湧き出ており、その甘い水で渇きを癒しながら一休みすることにします。
夕暮れ時、突然山々が輝き出したので楽僔がふと顔を上げると、黄金に輝く弥勒菩薩が空に浮いていました。
そして千体の光り輝く佛像が現れ、天上の調べを奏でながら浮遊する仙女たちに囲まれていました。
このまばゆい光景に感動し、楽僔はこの場所こそが仏教の聖地だと考え、そこで石窟を掘り、仏像を造ることにしました。
楽僔には絵画と塑像の嗜みがあったので、自分の技術を活かして、自身の目にした光景を再現するべく石窟を掘り進めました。
伝え聞くところでは、こうして楽僔が完成させた最初の石窟が、莫高窟の始まりであったといわれており、その後はシルクロードを行き交う人々にとっての巡礼の場となっていきます。
1000年間掘られ続けた石窟
三危山の石窟群は、その多くが唐の時代に作られたもので、「元」の時代までの約1000年の間、およそ500もの石窟が作られ、佛像と無数の佛教壁画で埋め尽くされるようになりました。
最高峰の芸術がここに納められたことで、莫高窟は「敦煌千佛洞」、または「東方のルーヴル宮殿」などとも称されています。
海運ルートの発展によってシルクロードが衰退していくにつれ、やがて莫高窟も世間から忘れ去られるようになりますが、先に触れた敦煌文書の発見により、再び脚光を浴びるようになったという訳です。
まさに過去の時代を掘り起こす形となった莫高窟の敦煌文書を通じて、遥か昔の人々の暮らしを垣間見られることにロマンを感じてしまいますよね。
【敦煌の莫高窟:1987年登録:文化遺産《登録基準(1)(2)(3)(4)(5)(6)》】