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心の苦しさを代弁する人形~映画「ロスト・ドーター」
ロスト・ドーター(2021年製作の映画)
この映画を観て不安な不穏な気持ちに心が暗くなる人や、子育ての渦中で胸が痛くなる人もいるかもしれない。
確かに不穏すぎて目を反らしたくなるシーンもあったが、自分自身も救われるような映画だった。
この映画を観て救われた、と思える人が私の他にもいるだろう、そうだったら嬉しい。
初監督作に挑んだ女優のマギー・ギレンホールは2人の女の子の母なんですね。どんな気持ちでこの映画を撮ろうと考えたのだろうか?(ありがとうと伝えたい)
主人公レイダを演じたオリヴィア・コールマンとジェシー・バックリーはなんて上手いの?
子どもという生き物に対する嫌悪感と、一緒にいることで押しつぶされそうになる気持、いつまでも続く罪の意識。複雑な感情、不穏、緊張感。演じるのも辛いだろうな。
子どもを産んだ女性が、みなそのまま「お母さん」になる、というのは大間違い
人間という生き物の中には、必ず一定の割合で「母性」持たない人もいるのです。
「母性」量?が目に見えるとしたら、ひとりの人間が持つ「母性」の量も人それぞれだと思います。
生き物だから自然なこと。
このラストに至るまでのレイダの訳わかんない行動にハラハラドキドキするのですが、大人になった母娘は良き関係が結べていることが、ラストで分かります。
「母性」が無いことで、子育ての罪悪感や辛さにいつまでもとらわれてしまうのだけれど、大人同士になった母娘の関係は変化する。幸せになれるということが分かってとても救われる。
そして、この罪悪感や辛さは、母性的な人でもそうではない人でも、どんな人でも共感できると思う。
子育てをする自分は自分の中の一部分。それだけがすべてではないんだよ。
すべてのお母さんたちを抱きしめてあげるような、そんなラストシーンに思えました。
心の苦しさを代弁する人形
さて、この映画に出てくる「お人形」は美しくない、どちらかと言えば怖い。可愛がられてるようにも見えない。(日本人の感覚でそう思えるのかな?)
しかし、映画に登場する女の子たちは、ぞんざいに扱っているように見えはするけど、とにかくお人形を愛して子どもらしく遊ぶのです。
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しかしレイダにとってはそうは見えない。
子どもと大人の感覚の違い。そしてその感覚を理解できないようでいて、実はレイダ自身が子どもっぽく人形を必要としている。
子どもの頃の大切にしていた母との思い出の人形を娘に与えたら、娘はそれを大切に扱っていないと感じて、想像以上に傷つきます。きっと自分でもなんでそんなに傷つくのか分からなかったのかも。
そこが彼女の母性の欠落しているところで、子どもと一緒にいることがつらい。
思わず盗んでしまった人形を、洗ったり、きれいな服を着せたり、抱きしめてみたり。でも人形は、醜くて気持ち悪い姿でぎょっとさせられます。ほんとうは愛したいのに。
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お人形や郷土玩具やぬいぐるみなどが大好きな私ですが、この映画のお人形は醜くて辟易してしまいました。
でも、あの人形があったから、レイダは心の内を出せた、というか過去の自分と対峙できたのかもしれないです。
嬉しい気持ちの時ばかりではなく、苦しい時や背負いきれないほどの心の重みがある時ほど、心に寄り添うことができる「人形」という存在。
いま世界が不安だらけで、生きるのが不自由で苦しい時代だからこそ、人形やおもちゃが癒しの力を発揮できるのでは?
「オンマが可哀そう」と味方してくれた友
さて、若きレイダが娘に顔をたたかれて激しく子どもに当たるシーンを見たせいか、不意に自分自身の子育ての1シーンを思い出しました。20年も前の出来事です。
息子が4-5歳の頃、出かけ先で急に不機嫌になり暴れだしたことがありました。理由は覚えていません。
知り合いの大ぜいが見ている前で、収めようとする私に怒りの矛先を向け、
「ママ、大っ嫌い。あっち行って」
と叫んで、私の顔をパチーン!とたたいたことがありました。
大人しくて暴力など無い子だったので、私は訳が分からず、ただただショックで。
たたかれた顔は痛くて、初めて我が子が宇宙人か凶暴な動物に見えました。
そして大勢の人が見ていたのでとても恥ずかしくて思わず目に涙が浮かびました。不安定な若い母親だったんですね~今なら肝っ玉が据わってびくともしませんが(笑)
そして、周囲の人から一斉に見て見ぬふりをされた(と感じた)、その時、ただ一人、知り合いの韓国人のママ友が飛び出してきて、私を抱きしめて
「何するの!オンマが可哀そう」
と私の子どもに向かって叫んだのです。
驚きました。
「え?私のほうをかばってくれるの?」と信じられなかったのです。
私だったら、子どもに対して「どうしたの?ママが痛いじゃない、そんなことしないで」と子どもに対応したでしょう。
「母親として、しっかりしなきゃ。子どもに間違った事させないように、私がしつけなきゃ」といつも気を張っていたので、(特に外で。人の前では、しっかりした母親をやってなきゃ、という強迫観念と言うか…)
「そうだ、私は傷ついているんだ」という気持ちに気付かされたのでした。
彼女が私に真っ先に味方してくれたことがただただうれしくて、そしてとても慰められました。
おそらく、優しい彼女のなかに「痛み」に対する共感があったのかもしれません。今思えば、韓国から日本に嫁いで子育てをしていた彼女は、私よりもっと孤独で不安だったでしょう。
映画のなかの若き未熟な母レイダ。私や彼女と同じだったなぁ。
あのレイダを抱きしめて「何するの!ママが可哀そう」とかばってあげられたらよかったのに。
私も彼女が不安なとき、慰めてあげられていただろうか?
あの時彼女に、私を抱きしめてかばってくれてありがとう、とちゃんと伝えられていたかしら?
映画を観てからもう何日も経ちますが、時々そんなことを考えて、切なくなったり、温かい気持ちになったりしています。