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『マリンバとさかな』 第二話

 十月。中庭の金木犀も鮮やかなオレンジ色の花を咲かせ、秋の香りを連れてきた。昼休み明けの古文の授業ほど、眠たくなる時間はない。先週席替えをして後ろのほうの席になったから、何人か頭が上がったり下がったりしているのが分かる。朝はあんなに晴れていたのに、徐々に雲行きが怪しくなってきて、まだ14時過ぎなのに教室は電気をつけていないとうっすら暗い。これはひと雨来ちゃうな。降ってきちゃったら自転車は学校に置きっぱなしかな。

 私は授業のことなんてちっとも耳に入っていなかった。入る隙もなかった。ノートの下に隠しているプリントをもう一度見る。
『第36回 アンサンブルコンテスト 募集概要』
 

 ジリジリと夏休みに入る直前のあの日の記憶が巻き戻される。
 
 

 
 夏のコンクールは銀賞だった。
 演奏が終わって、ホールの袖口から退場した瞬間、「最高の演奏だったね!」パーカス四人で手をつないで笑い合った光景は今でも鮮明に覚えている。
 

 結果発表を聞いて、帰りのバスではタオルで顔を隠して泣いた。
 
 声が漏れないように、堪えるように静かに泣いた。
 
 悔しかった。

 私たちの出番は午前の部の終わりの方で、午後の部はただひたすら他校の演奏を聞くだけだったけど、正直負けたと思った学校もあった。暗がりの客席で、手元のパンフレットに雑に星印をつけていた高校の中にはゴールド金賞を獲ったところもあった。
 
 本当に悔しかった。
 
 私たち三年生は、この夏のコンクールをもって引退した。
 

 部活の無い夏休みは初めてだ。中学生の時は、十二月の定期演奏会まで部活があったから、何も無い一日がこんなにも続くのはあまりにも久々すぎて落ち着かない。
 
 コンクールが終わって以来、私は迷走していた。
 
 楽器は触らなくなると全く出来なくなる。腕だけは鈍りたくなくて、毎日少しだけマリンバを叩いた。基礎練でいつもやる曲や、普段弾かない曲なんかも交えた。次にいつ、ひと前で演奏するかなんて分からないけど、叩けなくなる自分はどうしても想像できなかった。想像したくなかった。
 
 結局、夏休みという名の真っ白なカレンダーの大半は夏期講習の文字に塗りつぶされて、高校生活最後の夏休みはあっけなく過ぎ去った。
 
 

 夕課外が終わる頃には、とっくに雨が降り始めていた。やばい。どうしよう。天気予報なんて見てすらいなかったから、当然傘は持ってきていない。自転車は置きっぱなしにするつもりだったけど、爆速で漕いだ方が駅にはすぐ着く。幸い体操着もあるし、駅のトイレで着替えれば何とかなる。もう、それしかないかな。

  濡れる覚悟を決めて、靴を履こうとしたとき、

 「茜音―。どうせ傘持ってきてないんでしょ? またびしょ濡れで帰るつもり? それなら駅まで一緒に入ってく?」夏鈴に呼び止められた。
 
 夏鈴はクラスメイトであり、吹部の元部長だ。

 「あれ、今日はこのまま塾に行くんじゃないの?」

 「あ、うん。雨降ってきちゃったからさ、いつもはそのまま行ってるけど、今日は親に送り迎えしてもらおうかなって」

 「ふーん。でも助かったよ、傘。合唱コンクール前に風邪引いても困るもんね」
 

 大きめと言いつつも、女子高生二人が一本の折り畳み傘に入り切るのは無理があって、互いに通学カバンを外側の方にかけて歩いた。雨は次第に強くなってきて、校舎を出てまだ数分しか経っていないのに、靴下はもうとっくにぐしょぐしょに濡れて気持ち悪い。

 「ほんと、雨って憂鬱にさせるよね」夏鈴は傘を少し前に傾けて雨粒を落としながら喋り出した。

 「え、どうして?」茜音も言葉を返す。

 「だってさー、教室から見てる分には全然良いけど、実際に雨浴びちゃうと嫌じゃない? ほら、カバンだって濡れちゃうし。帰ったらちゃんと乾かさなきゃなぁー。」

 「うん、そうだね」
 
 茜音は夏鈴の話を横目で聞きつつも、視線はずぶ濡れの足元から動かなかった。しばらくは私も夏鈴も世間話に花を咲かせていたけれど、急に夏鈴がそういえばさ、と話を変えてきた。

 「茜音さ、今日の音楽の授業終わり、先生と何話してたの?」

  やっぱ夏鈴には気づかれちゃってたか。
 
 先週から音楽の授業時間も、合唱練習をして良いことになっていて、夏鈴は今年も伴奏を担当していた。私は授業終わり先生に音楽準備室に呼び出された。準備室の入り口はグランドピアノの横にある。むしろ気づかれない方がおかしいぐらいかもしれない。夏鈴には正直に言っちゃっても良いのかもな。

 「あー、あの時ね。私さ、冬のアンコンに出ようと思ってるんだよね」

 「え、アンコン・・・? え、茜音、本気で言ってるの? 私たちもう引退したんだよ? それに年明けすぐセンター試験あるんだよ?」

  夏鈴の声のトーンが少し高くなったのが分かった。傘の中ではあまりにも距離が近すぎて、互いの顔は正面を向いたままで話を続ける。

 「夏鈴、落ち着いて。分かってるよ、そんなこと。確かに私たちは夏のコンクール終わりにとっくに引退したよ。でもさ、やっぱり銀賞で部活動人生を終わらせたくないの。悔しいの。大学でもマリンバを叩けるかなんて分からないし、プロになるつもりなんてさらさらないよ。自分勝手すぎるのも分かってる。でも、今の私はこれぐらいでしかないって信じたくないの! ・・・ほら、うちのお母さんが元マリンバ奏者だったのは夏鈴も知ってるでしょ? お母さんは学生時代、何度もコンクールに出たけど、結局現役時代に金賞を取ったことはなかったんだって。そんな話を小さい時から聞かされちゃうと、一度くらいは金賞を取ってお母さんに娘のカッコいい姿見せてあげたいじゃん」少しだけ早口になって、私は思いの丈を夏鈴にぶつけた。

 「・・・茜音の気持ちはよく分かった。うん、まだ納得できないところもあるよ。もちろん。でもさ、そんな簡単にやりたいです!って言ってすぐにやれる訳ないじゃん。そこら辺はどうしたの?」

 「実はさ、夏休み明けぐらいからずっと先生に相談してたの。私もアンコンに出れないかって。そしたら、今年は打楽器パートをアンコンに出すか迷っていたから、まずはパートの子に相談しなさいって。先生からも声はかけてくれるけど、自分の言葉でちゃんと伝えなさいってさ。だからちゃんとあの子たちとじっくり話したの。そしたら、先輩ともう一度演奏したかったです!って三人とも言ってくれてさ。もしかしたら言わせちゃった感も若干はあったかもしれない。それでも一緒に演奏できるってなって嬉しかった。だから改めてアンコンに出場したいって伝えたくて、先生と話してたの。やっぱり、私はマリンバを叩いてる時が一番楽しいからさ!!」
 
 夏鈴は話している間、途中で遮ることなく最後まで聞いてくれた。私自身も夏鈴に遮られないように、またしても早口で喋っていたかもしれない。

 「そっか。茜音らしいよ。最後の一言なんて特にさ。分かったよ。私が止めようとしたって無駄だもんね。それが茜音だからさ。ほら、そろそろ駅着くよ」

 「あ、ほんとだ。もうここで大丈夫! 夏鈴ありがと! また明日ねー」
 
 茜音は駅舎が見えたところで夏鈴の傘を飛び出し、駆け足で駅舎の外のトイレに向かった。体操着に着替えて電車に乗り込む。濡れた髪をタオルで拭きながら、ふと目の前の窓に映る自分を見る。なんだかんだ言って、夏鈴とは小学校の頃からの仲だから、最終的には一番の味方でいてくれるって分かってるのに。なんでムキになっちゃったんだろう。ただ夏の結果が悔しいってだけなのにね。本当にそれだけなのに。お母さんの話も出して、まるで美談を語ったみたいじゃん。

 「あーあ。私、夏鈴に強がっちゃったな」
 
 窓に映る向こうの自分が聞こえるぐらいの声で呟くと、ドアが閉まり、電車が動いた。
 
 

 数日後、茜音は先生から楽譜を受け取った。

 紛れもない、アンコン用のマリンバ三重奏の楽譜だった。

 家に帰ってから、早速インターネットで演奏動画を探して曲を聴いてみた。次々とページをめくりながら、コロコロと転がる音符を目と耳で追う。曲を聞いて思い浮かべた第一印象はとても大切で、同じイメージを思い描くことで曲への目線がそろう。

 茜音は直感で感じ取ったそのイメージを忘れないようにノートに書き込んだ。
 

 
 この五線譜の海は大荒れだ。

  夏コンのパーカスソロとはまるで雰囲気が違う。今のままじゃ、最初と最後の追いかけ部分、トレモロの手がみんな揃わない。
 
 夏以上に練習しないと、譜面の波に飲み込まれる。私も、残り二人も。
 
 私の高校時代最後の曲は最高に難しい。






 ミーーーーンミンミンミン。ジジジジジ。

 水槽の中にいてもヤツらの歌声が聞こえてくる。夏だ。

 茜音がマリンバを叩く時間はぐっと減った。コンクールとやらは終わったようだ。朝も昼も、茜音も詩音も家にいる。夏休みが始まったらしい。夏休みの間、茜音は毎日練習部屋に来た。そして1−2時間ぐらいマリンバを鳴らして、床に寝転び昼寝をした。起きると部屋を出て、翌日までマリンバは鳴らない。

 あっという間に夏休みが終わり、秋を迎えた。

 紅葉が鮮やかに彩る十月頃、再び茜音は毎晩練習部屋にこもるようになった。

 これまで聞いたことがない、新しい曲の練習が始まった。オレは嬉しかった。最初は短かった音の雫たちが徐々に長く紡がれてゆく。そうして一本の糸―曲―が出来上がる。形になっていくのを聞いているのは耳心地が良い。でも、茜音の表情はどこか焦っているようだった。

 曲のはじめとおわりはどうやらテンポが速い。腕の振り幅、音板から音板へ移動する横の動きも激しくなる。その部分で度々、茜音はつまずいていた。

 夜中になると音は控えめになるように、マレットを反対に持って、普段握っている部分をカツカツと力を弱めて叩いていた。いくら茜音のマリンバが好きだといっても、あまりの詰め込み具合にオレは心配になった。

 

 いくら応援の声を届けようとしても、開いた口からは泡しか出ない。

 力になんて何もなれない。

 茜音の猛特訓は年の瀬まで続いた。

 

 

 冬に戸締りをして、春が来た。

 桜が花ひらく時期、窓の外からは小鳥のさえずりも聞こえてくる。三月もあと少しで終わろうとしているある日、家の中は朝から慌ただしかった。

 茜音が春から東京の大学に進学するため引っ越すことになった。今日はその引っ越し当日だった。数日前、茜音が本棚の前で楽譜を整理していたのがようやく理解できた。

 

 ・・・は。どういうことだ。茜音がいなくなるだと・・・。

 オレは動揺を隠せず、いつにも増して水槽の中をゆらゆらと泳ぎ回っていた。

 もうこの家には茜音はいない。オレの好きなマリンバの音は誰が叩いてくれるんだ。詩音はもっぱらピアノじゃないか。茜音がいなくなったら昔みたいにたまには叩いてくれるのか。いや、オレは茜音のマリンバの音が好きなんだ。練習している時も、遊んでいる時も、手先だけじゃなくて全身を大きく使って奏でている彼女の演奏が良かったんだ。

 

 もう、オレの好きなマリンバの音はを聞くことはない。

 いつもは気にならないはずの水槽のポンプ音がやけに大きく、耳障りに感じた。

 しばらく弾くことが無いからか、茜音のマリンバはカバーがかけられ、部屋の隅に寄せられていた。


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