
きいろい知らせ
梅雨の時期には自家製の梅シロップや梅酒を作り、秋になると栗の甘露煮や渋皮煮を作る。季節の食べ物をより美味しく、より長く味わいたいから、ひと手間加えた料理をする。
そんな季節ごとに訪れる風物詩。
私の風物詩にはもう一つ、「日向夏」が入っている。
日向夏にこれほど惹かれるようになったのは、つい最近のこと、2年ほど前のことである。宮崎で育ったこともあり、食卓には度々、日向夏が並んだ。両親は日向夏独自の肉厚な白い皮が苦手だったようだが、私は生で食べるだけではなく、サイダーに浸してジュースと一緒に楽しむことも多々あった。
親元を離れ、大分で暮らすこと数年。不意に日向夏が恋しくなった。桜が散り、若緑の葉が生い茂る初夏のことだった。母親に「近くで日向夏が売っているのを見かけたら送ってほしい。」と連絡すると、「もう売ってないわよ。2〜3月ぐらいじゃない?」と言われた。ちょうど店先から無くなった時期だった。
それから約10ヶ月、頭の中では何度も黄色い太陽がゴロゴロと転がっていた。
ようやく翌年の3月、実家に帰省したときに近所のスーパーに足を運ぶと、僕は数年ぶりに日向夏と再会することができた。思わず目の前のこの子たちを抱きしめたくなった。会いたいとずっと思っていた人に、ようやく会える瞬間はこんな気持ちになんだろうなと思った。
そうして願いが叶い、袋詰めされた日向夏を2袋買うと、僕は大分へ戻った。
ここからが日向夏奮闘記のはじまりである。
まずはシンプルに楽しみたかったので、フルーツサンドにした。
生クリームの甘さと日向夏の程よい苦味、酸味、そしてみずみずしさが何とも言えない絶妙なバランスだった。その日の晩は洋酒に日向夏の果実を小さく切って入れ、ソーダ割りで楽しんだ。まるでライムを入れるかのように。
これまで食べた日向夏は4〜5個、まだ半分近く残っていた。静寂に包まれた夜、お酒で口をうるおしつつ、ネット上で日向夏を使ったレシピを探していると「日向夏ジャム」の文字を見つけた。コレだ、と思った。
翌朝、1枚の紙切れを持って台所へ向かった。前日の晩に、さまざまなサイトを見比べ、自分でもできそうな部分を混ぜ合わせたオリジナルのレシピを書き記していたのだ。
目の前には6つの日向夏。
これから美味しくするからね、と願いを込めて包丁をつかみ、一つめの日向夏に刃を入れた。
1〜2時間後、鍋からはグツグツと音が鳴り、少しずつジャムらしい姿になってきた。煮沸消毒しておいた瓶たちにていねいにジャムを流し込む。しっかりと蓋を閉め、逆さまの状態にして冷ましておく。
ちょうど夕方に外出する用事があったため、一度家を離れたのだが、家に帰り扉を開けると、きいろい香りがふんわりと部屋中を包み込んでいた。
出来上がった日向夏ジャムは、「ジャム」というより「マーマレード」もしくは「ソース」といった方が良いかもしれない。市販のジャムよりかなりシャバシャバしているからだ。ただ、その分料理で使える幅が広がったので、トーストに塗ったりヨーグルトにかけるのはもちろんのこと、マーマレードポークやソテーのソースに使ったりした。
はじめての日向夏ジャムはその後、半年にわたって食卓に彩りを添えてくれた。
冒頭で書いた梅シロップや梅酒、栗の渋皮煮なども実はまだ一度しか作ったことがない。というのも、日向夏ジャムを作ってから「季節の食べ物を長く美味しく味わいたい」と思うようになったからだからだ。
こんな世の中になり、家にいる時間が長くなったが、台所は僕に新しい居場所を与えてくれた。
今までも立っていたはずの、あの場所に。
月日は流れ、2021年2月、再び日向夏の季節がやってきた。少し時期が早かったものの、ジャムを作る分だけの日向夏を買うことができた。
昨年、書き残したレシピを引っ張り出して台所へ向かう。
一つ一つていねいに水洗いした日向夏をボウルに入れ、今年もよろしくお願いしますと挨拶をする。
今年の日向夏ジャムは4瓶だった。
半年ぶりに冷蔵庫の左上にジャム瓶が並ぶ。
春が来るたびにやってくる、この子たちの特等席だ。
きいろい知らせが春を告げる。