簡単なハナシをしよう。
ハロー。ごほちダヨ。
最近暑いね。
路上ですれ違う人って
田舎より都会の方が目が死んでいる人の割合が
多いように感じるんだけどさ。
夏は特に目の死に方が深くなる人が増える
気がするなって感じてる。
サムネはごほち作の
“夏の喫煙所にいるゴッホ”
真夏の喫煙所はみんなこんな顔してる。
夏の暑さは人を狂わせる。
以前どこかの記事で綴ったかと思うけど、頭のおかしい人自分と歯車の噛み合わないヒトって
とにかく“声がデカい”のよ。
夏の昼間に拡声器持って狂わされる人たちが
たくさん出てくるのはさ。
田舎も都会も変わんないんだなって思った。
今日はね。
簡単なハナシ。
ごほちの“死生観”について
これは文章としてのこしておきたいので
ちゃんと書こうと思うよ。
ずっと“死ぬこと”ってなんだろうなって考え続けてきた。
人生の大半を“愛”と“死”についての思考の時間に費やしてきた。
考えている時間は絵の無いパズルみたいだ。
答えなんてきっとないけど、
ひとつずつピースが自分の中で嵌まって、
埋まっていく。
大きさも完成形もわからない果てのないパズル。
僕はこのパズルに酷く魅了されてしまっている。
100人いたらきっと
100通りのパズルの形があるだろう。
未完成な僕の
作りかけのパズル。
“忘れられること”も“死ぬこと”じゃないかなって思う。
大人気少年漫画のトナカイのキャラクターの
過去編でも同じことが語られていたよね。
大人になったいま、思い描いているパズルの
完成形にいちばん近いのはあのシーンだ。
先日少しだけお話をした方と
喫煙所で5分ほどこんな話をした時に
「じゃあいまこの瞬間も、我々は誰かから忘れられている。誰かの中の“自分”は死んでいってるのかも知れないですね」って話になって
不思議な感覚に陥った。
あの衝撃はアブサンのせいじゃない。
僕が。言欲が。
何かを書き続けるのってさ。
自分が思い描く“死”を遠ざけようと足掻いているから。
書くことは僕にとって“生きること”なんだ。
いまこの瞬間、僕は僕にとっての意味で
誰かの中で死にながら生きているんだ。
僕と関わった全ての人間の脳味噌から
僕が死んだ時。
その時が来るのが怖い。
永遠じゃなくていい。
ただ言欲っていうひとりの男と
彼の思い描いた世界を殺してしまわないために。
100年先なんて欲張りは言わない。
10年後もたくさんの言欲が
君たちのやさしい脳味噌の中で生きていて欲しい。
だからもう少しだけ
作品の更新とかも頑張ろうと思う。
みんなももう少しだけ
僕のことを殺さないでいてくれたならうれしい。
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