見出し画像

【試し読み】文学フリマ東京39「書替え三人吉三」

12月1日(日)に開催される文学フリマ東京39にて新刊「書替え三人吉三かきかえさんにんきちさ」を販売します。

新刊「書替え三人吉三」目次
はじめに 
「三人吉三」の作品概要
「三人吉三」のあらすじ
寝覚めの悪さの理由
書替えとは?
開き直って悪の道を極める
妖刀に振り回される
怨霊になって供養の場に出てくる (道成寺)
お土砂を使う
全部盛り その一 
全部盛り その二
おわりに
参考文献一覧

新刊「書替え三人吉三」目次より

"河竹黙阿弥かわたけもくあみの「三人吉三さんにんきち」の寝覚の悪い感じを打破する書き替えのための設定を考える"という超個人的な目的から企画した本ですが、黙阿弥や「三人吉三」に興味がある方にとっては面白いものになるように、一生懸命書きました。
これを書いてから憑き物が落ちたかのようにスッキリ寝覚めが良くなったので、自分の中でずっと抱えていた三人吉三(特に和尚吉三)への思いに一区切りつけられたようです。

この新刊「書替え三人吉三」の中から《はじめに》、《「三人吉三」の作品概要》、《寝覚めの悪さの理由》のパートを公開します。


では、ここから試し読み本編です。


はじめに

歌舞伎のチラシでは、演目の右上に作者の名前が書かれる。教科書にも出てくる近松門左衛門や鶴屋南北の名前もここに書かれるし、時代が近いところだと泉鏡花や森鴎外などの小説家の名前もここにある。チラシの中でひっそりと、でも確実に目に入ってくる演目の右上という位置に書かれている名前のなかで、一番登場頻度が高いのは
河竹黙阿弥かわたけもくあみ」である。

二〇二四年一月から一二月の歌舞伎座の演目は、五九演目あり、そのうち河竹黙阿弥作と記されたものは、十一演目だった。実にひとりの作者で一割強を占める。
河竹黙阿弥は坪内逍遥に〈江戸歌舞伎の大問屋〉と表されるほど多作なことでも有名で、生涯で約三六〇もの作品を生み出している。

芝居の作品の代表作だけでも、

  • 小袖曾我薊色縫こそでそがあざみのいろぬい』(通称:十六夜清心いざよいせいしん

  • 三人吉三廓初買さんにんきちさくるわのはつがい』(通称:三人吉三さんにんきち

  • 青砥稿花紅彩画あおとぞうしはなのにしきえ』(通称:白浪五人男しらなみごにんおとこ

  • 梅雨小袖昔八丈つゆこそでむかしはちじょう』(通称:髪結新三かみゆいしんざ

  • 天衣紛上野初花くもにまごううえののはつはな』(通称:河内山こうちやま直侍なおざむらい

  • 新皿屋舗月雨暈しんさらやしきつきのあまがさ』(通称:魚屋宗五郎さかなやそうごろう』)

など現在でもよく上演されている作品が多く、
この他に舞踊作品の歌詞も手掛けていて

  • 連獅子れんじし

  • 船弁慶ふなべんけい

  • 紅葉狩もみじがり

など舞踊の代表作も多い。

現在上演されている黙阿弥の作品はどれも掛け値なしに面白いし、機会があればぜひ見て欲しい。しかし、黙阿弥の作品の中でひとつだけ、個人的にどうしても引っかかって他のものと比べてうまく人に勧められない作品がある。

それが「三人吉三」である。

「三人吉三」は黙阿弥自身が会心の作とするほど作品としての完成度が高く、古典作品を現代的な新たな演出で上演するコクーン歌舞伎でも度々上演されたり、歌舞伎の舞台を映画化したシネマ歌舞伎のラインナップの一つにもなっている。そのため、時期によっては映像でも見ることができる作品である。
古典作品として通常の歌舞伎公演でも、様々な演目の名場面を上演する〈見取り〉形式と、話を最初から最後まで上演する〈通し狂言〉の形式の両方でたびたび上演されていて、七五調の代表的なセリフの「月もおぼろに白魚のかがり霞むかすむ春の空」もどこかで聞いたことがあるかもしれない。
で、あるならば、通常なら積極的に人に勧めたい作品であるはずなのに、ある理由から人に上手く勧められない。
その理由は、黙阿弥の作品の中、(なんなら歌舞伎の作品の中で)一番閉じていて、とても寝覚めが悪いと思っているからである。
歌舞伎には悲劇的なもの、猟奇的なもの、一般的な倫理にそぐわないものも数多くあるが、それらの要素よりも、面白いという娯楽性によって観劇を気持ちよく終わることができる凄さがある。
けれども、個人的に「三人吉三」はその設定と筋立ての寝覚めの悪さが娯楽性よりも強く、それゆえにどうしても人に勧める際に言い淀んでしまう。
この文章の著者(ごごいち)を知っている人は、黙阿弥の作品より鶴屋南北の作品が好きだからでは無いかと思うかもしれない。たしかに全体としては鶴屋南北の方が好きだったりするが、それでも黙阿弥の作品で好きなものはたくさんあり、特に「白浪五人男」や「十六夜清心」は好きな作品の中でもかなり上位に入る。

黙阿弥は三親切(見物に親切、役者に親切、座元に親切)をモットーとしていて、先ほどあげた代表作も当時の役者たちのために書き下ろしていた。「十六夜清心」と「三人吉三」は四代目市川小團次ために、「白浪五人男」「髪結新三」「魚屋宗五郎」は五代目尾上菊五郎のために、「河内山と直侍」は九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎のために書いていて、各作品の雰囲気が違うのは役者が違うからというのが大きい。

対象の役者が異なるからという理由なら納得できるが、ここで不思議なのは、同じ四代目市川小團次のために書き下ろした「十六夜清心」はとても好きなのに、「三人吉三」にだけどうしても寝覚めの悪さを感じてしまうということである。

その寝覚めの悪さの分析は少しにとどめておいて、この本では、この寝覚めの悪さを解消すべく、「三人吉三」を書替えるための設定を考えてしまおうと思う。
分析は大事であるが、分析や解説ではこの個人的な寝覚めの悪さを解消することができなかった。(なんなら文字通りこれを考えすぎて寝覚めが悪い日があった。)
だったら、三人吉三の書替え設定を考えた方が楽しいし、個人的に解消するためには建設的であろうと思ったからである。

そんな超絶個人的な試みにお付き合いいただければ幸いです。

「三人吉三」の作品概要

演目名:
三人吉三廓初買さんにんきちさくるわのはつがい(初演)
三人吉三巴白浪さんにんきちさともえのしらなみ
初演:安政七(一八六〇)年一月 江戸・市村座
概要:
初演の安政七年が庚申かのえさるの年であり、 庚申の夜に生まれた子供は盗人になるという庚申こうしん信仰から庚申→ 猿→三猿 (見ざる言わざる聞かざる)→三人の盗賊という発想と「八百屋お七」のお七の恋人、吉三郎の名前から吉三と名乗る三人組の盗賊となった。この三人の吉三の筋に、洒落本「傾城買二筋道けいせいかいふたすじみち」の木屋文里きやぶんりと吉原の遊女・一重ひとえをそれぞれ十三郎の主人とお坊吉三の妹として筋に絡ませていた。そのため初演時の演目名に「廓初買」とついている。
黙阿弥自身は会心の作としていたものの初演時には評判にならず、関西や名古屋では上演されいたものの、しばらくは東京での上演はなかった。その後、明治三二(一八九九)年の明治座での上演時に、木屋文里と一重の悲恋話をカットし「三人吉三巴白浪」として改作。これが大評判となり、度々上演される上演レパートリーの一つとなった。
現在は、「月も朧に白魚の」のセリフで有名な大川端庚申塚おおかわばたこうしんづかの場単独での上演が圧倒的に多く、数年に一度は大川端庚申塚の場から本郷火の見櫓までの通し狂言の形式での上演も行われている。(ただし二〇〇五年の博多座を最後に東京以外では通し狂言での上演は行われていない。)
現在の通し狂言では大川端庚申塚、割下水わりげすい伝吉内、本所お竹蔵たけぐら、巣鴨吉祥院きちじょういん本堂、同 裏手墓地、元の本堂、
本郷火の見櫓の場を上演することが多く、公演によってこれ以外の場面を追加したり、割下水伝吉内と本所お竹蔵をカットしたバージョンも上演されている。

寝覚めの悪さの理由

「三人吉三」最初の場面、大川端庚申塚の場では義兄弟の契りを結び、これから悪党として3人で悪さをするだろうという予感でとんでもなくワクワクするのに、その後が土左衛門伝吉の因果に全てが絡め取られていき、息子である和尚吉三がその決着をつけることになる。
この物語をはじめて知った人にとっては、近親相姦自体が寝覚めが悪い要因と感じるかもしれないが、歌舞伎ではおとせ・十三郎と同じような状況になるが、違った過程を辿った作品があり、まずはそれを確認したい。

<類似状況での解決方法>
・鶴屋南北「東海道四谷怪談」深川三角屋敷の場
お岩の妹の”お袖”は敵討のために死んだ夫の家来の”直助”と契りを交わすが、死んだと思っていた夫の”与茂七”が現れる。直助と与茂七の両人を裏切ったことを恥じたお袖は二人の手にかかって瀕死の状態となり、姉の敵討と兄の行方を探して欲しいとほぞの緒書き(親など出生時の情報を記したもの)を渡す。するとそれを見た直助はお袖の首を打ち落としてしまう。ほぞの緒書きをみた直助はお袖が妹であったことを知って、畜生の行いと主殺しを悔いて自らも切腹する。

以上が、四谷怪談での解決方法である。
四谷怪談のお袖と直助は、おとせ・十三郎と異なり双子ではないが、お互いに顔を知らない兄妹であり、直助がお袖に恋慕していたという状況は三人吉三と似ている。
しかし、四谷怪談の方では、お袖は兄と契ったことは知らずに、二人の夫を持ったことを恥じて自ら討たれようとする。また直助は妹と知ったことと当時の重罪であった主人殺しを恥じて自ら切腹する。お袖と直助の死の原因は兄妹の間で契ったことだけではないし、それぞれに自らの行動に起因した死であると納得しているところが大きく異なる。
比較して分かることは、近親相姦自体が問題なのではなく、それを当人たちが知らないこと。また双子も土左衛門伝吉も和尚吉三も行動主体とその結果の責任を取る主体が異なっていてチグハグなことにある。詳細に見ると次の三つが寝覚めの悪さの要因であると考えている。


  1. 土左衛門伝吉が原因であるのに、伝吉自身はおとせと十三郎が恋仲になるところを止めずに、畜生道に落ちるのをあきらめて見ている(双子に事実を伝えればまた行動は違ったかもしれない。)

  2. おとせと十三郎は殺される瞬間も自分たちが兄弟であることを知らず、来世では夫婦になれると信じているが、待っているのは地獄の畜生道である。(和尚も慈悲心から真実を知らせずに殺すが、この芝居の世界の理屈では結局畜生道に落ちることによって自分達が犯した罪を知る可能性が高い)

  3. 和尚吉三自身が犯した罪ではないのに、父の罪も双子の罪も両方背負おうとしているが、その試みはあまりうまくいっていない。(和尚自身が義兄弟の契りを結びこう生きたいと思っても、親父と双子の行動の清算が主な仕事となってしまっていて自分の生き方をうまく貫けていない)

登場人物が仮にどんなにとんでもない悪人であったとしても構わないが、その代わり芝居の中では自分を貫いて結末に責任を持つということをして欲しいと願ってしまう。
そういった意味で土左衛門伝吉は盗みしかしていないけれど、芝居の中で五人斬りなどの虐殺をする悪人よりも罪が深く、またその親の因果に決着をつけようとする和尚吉三がどうしても可哀想に思ってしまう。家族によって自分の生き様を貫きたくても貫けないということは、現代でも十分起こりうる問題でもあったりする。
主にこの三点をどうにかこうにか解消して、和尚吉三を和尚吉三として納得する形で土左衛門伝吉の因果から解放してあげたい。そんな著者のエゴを満たせる手法がある。それは、歌舞伎特有の〈書替え〉というもので、次はこれについて説明していこう。


以上、お読みいただきありがとうございます。

続きは、12月1日(日)開催の文学フリマ東京39@東京ビッグサイト 西3・4ホールの【J-48】でお買い求めください。

既刊「自分で歌舞伎座の演目が選べるようになるガイドブック」の試し読みはこちら☟

お品書きを公開しています。取り置きも受付中です。☟


文学フリマ東京39の 開催概要はこちら☟

https://bunfree.net/event/tokyo39/


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集