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適応障害のお話し3(元開発研究員、中国語発音講師eico、克服後の振り返り)

「適応障害」というプロフィールに興味を持っていただきありがとうございます。わたしは社会人3年目のときに適応障害になりました。克服し、当時とは別の世界で働いています。これまで二回にわたり、適応障害発症と克服についてのお話を紹介しました。

今回は、適応障害の原因と過去の自分に向けたメッセージ(闘病前、闘病中、その後)をお伝えします。

私が考える発症原因

わたしは医療関係者ではありませんし、勘違いもあると思いますが、ちょっとお付き合いください。

開発研究に向いていなかった

これに尽きます(笑)。思い返せば、高校の入試の実験のときも、回路は完成しているのに、電池を入れるのを忘れていました(試験時間終了間際に気が付き、合格しました)。
大学時代も、大学院時代も、実験をよく失敗していました。わからないことを作りあげていく開発研究が好きだったかと言われたら、そうでもなかったと思います。指導教官の先生との相性がよく、研究室が楽しかったから、自分も研究開発が好きだと勘違いしていました。
院まで進学したんだから、やっぱりもったいないよね、と開発研究職に絞って就職活動をした時点で、自己分析ができていなかったのです。

自分をさらけ出さなかった

就職に伴い、関西から上京しました。同期に関西弁で話しかければ、「おばちゃんみたい」と笑われ、ツッコミを入れれば「きつい」、自分を落とせば「イタい」(笑)。それまで自由奔放に生きてきただけに、失言も数多くしました。青かったのです。ここに懺悔します。
わたしは言葉を標準語に変え、常に笑顔を心がけ、「人当たりのいいひと」を装いました。関西弁の自分を出してしまうと、周りを困惑させてしまう。常に周りにアンテナを張りめぐらしていました。それでも時には失言してしまい、一人反省会を開催していました。

周りを羨ましがる気持ちが消えなかった

周りのいろんなことが羨ましくてたまらなかったです。例えば、ゴールデンウィークは何連休なのか、という話。わたしは土日出勤でしたが、周りは9連休!10連休!と休みの数勝負。
大学時代の友人が手掛けた新商品が発売されたと知り、とても羨ましく感じました。
同期が実は縁故採用だったことを知り、役員や重役たちとため口で話しているのを目撃しました。就活大変だったよね、これから一緒に頑張ろうなんて言ってきたのに、実はコネだったのかと羨ましくなりました。
毎日毎日、どんどんどんどん暗い気持ちが心にたまっていきました。

羨ましいという気持ちからは何も生まれません。羨ましいから努力したって、自分には変えられないことだってあるのです。

末っ子ゆえの甘え

小さなころから、家庭内の基準は姉二人でした。自分が見つけた小さな発見、自分ができたことを話せば、「それ知ってる」「大したことない」「間違ってる」。母親に一生懸命、学校行事のことを話せば、「はいはい、お姉ちゃんのときと変わってないよね」。
わたしはやがて、「自分が考えるより、誰かに聞いて知った方が早い」「世間一般的に得になりそうなのは何か調べ、それを満たせばOK」と効率のよい方法を編み出しまた。
もちろん、人に聞いた方が早いこともあります。勉強なんて先生に聞きに行った方がいいでしょう。損得勘定で判断してもいいこともあるでしょう。

でも、自分の人生は自分のものなのです。わたしは「誰かに最良の方法を教えてもらえるんじゃないか」という甘えがあったように思います。

自分が何がしたいか表面上でしか考えていなかった

就職活動で必ず聞かれる「あなたは将来何がしたいですか?」

「食べ物で人びとに健康になってもらいたいです」という答えは準備していました。今だからこそ言いますが、これは特定保健用食品のコンセプトから取ってきたもので、自分で考えた言葉ではありません。
「何がしたいか、これから見つけます」と言い切る勇気もなく、「何がしたいか」と聞かれたらこう答えたらウケがいいだろう、就職面接を通るだろう、という表面上の考えで回答を準備してしまったのです。

世界規模の食品メーカーの面接でも、この言葉は通用しました。

面接官はだませても、自分はだませません。

働くうちに、悩みは少しずつ深まっていき、自分が何をしたいのか分からなくなりました。もちろん、何とかこの職場でやっていこうと、勉強もしました。資格も取りました。相談もしました。でも、どこか、職場や職種が合っていないという気持ちが強く、この職場の中で将来も生活するという確固とした気持ちが確立されていなかったように思います。

過去の自分へのメッセージ

闘病前の自分へ「自分に正直になってごらん」

「まちがっていてもいいから、自分の頭で考えてやってみよう」
「失敗してもあなたの価値は変わらない」「人と比べるのはやめましょう」
「羨ましい気持ちは努力でも消えません」「損得勘定で生きるのをやめなさい」
「自分の道を進みなさい」
「自分に正直になりなさい」
「視野を広げなさい」

多いですね(笑)

わたしは常に社会や家庭内の基準に沿って、損しない、人より優位になれるところを探して生きてきました。

国語と英語が好きなのに、数学と理科もそこそこできるから、国語と英語が生かせる理系へ。理系に行ったら、少しでも偏差値の高い大学へ。大学に行ったら、就職に有利な大学院へ。就職は大手製造業へ。
わたしの履歴書はキラキラしているように見えるかもしれませんが、自分の考えで選んだものではなく、周りの基準で「いい子」を目指した結果なのです。
それ、自分の頭で考えた?と問いかけたいです。

闘病中の自分へ「こんなときがあってもいいんだよ」

「休むことは大切」
「あなたが休むことは自分のためであり、周りのためでもある」
「生きているだけで大丈夫」
「あなたが思うほど、まわりはあなたのことを気にしてない」
「世界の中にはあなたのことをわかってくれる人が必ずいる」
「人生、こんなときがあったっていいじゃない」

励ましているのか、そうでないのかわからないメッセージですね(笑)でも、どれか一つでもきっと心に刺さるはず。壁に向かって、部屋で一人、泣いていた自分にかけたいです。

闘病後の自分へ「あの時があったからこそ今がある」

「適応障害になった経験や自分をまるごと受け止めよう」
「あなたはあなたのままでよい」
「頑張りすぎる人は自分が頑張っていることに気づかない」
「悲しみはいつまでも続かない」
「自分は変わる。人も変わる。環境も変わる」

はい、闘病後だって悩みはいろいろと出てきます。でもね。あの頃の経験があったからこそ、乗り越えられることもある。言えることもある。出会えた人だっている。
いろんなことが必ず力になる、そう声をかけたいです。

今の自分へ「自分に厳しすぎるのは自分の理想が高いから」

「わたしは、すごい人でもなんでもなく、ただの無名人」
「そのままで大丈夫」

きっと「自分に厳しする」のは「自分はこんなもんじゃない、もっとすごい人間なんだ」というちっぽけなプライド、自分への過信から来ていると思っています。

小さなころから言われてきた「あんたなんか」。どんなにがんばっても姉たちを超えなければ家族の中では話題にならない。

「あんたなんか、じゃない、わたしはお姉ちゃんたちより、もっとすごーいんだから!」

ちっぽけなわたしはいつも頑張ることで満たされようとしていました。

でもね、そんなことはない(笑)。姉たちはやっぱりすごい。
そして、わたしはわたしでいい。
周りは、別に「えいこは今のままではダメだ、努力しろ」という気持ちで「あんたなんか」と言っていなかったのですよ。

最後に

中国出張に行ってちょっと中国語に興味をもったお姉ちゃん。
じゃあ!と、(ちょっと得意になって)中国語の発音レッスンしてみたら、
「これ、一個一個発音できて、ほめられてうれしいけど、何の役に立つかわからんわ」ですって。はい、そうですね。もっと中国語に興味を持ってもらえるよう授業を練らんとあかんなあ・・・

お姉ちゃんたち、いつも有意義なコメントありがとう。

わたしはわたしで、生きていくね。
これからもよろしく!

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