![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/151719113/rectangle_large_type_2_3cec8abdefeae79e2e4d7c0c6daf650d.png?width=1200)
トーマス・マン『ワイマルのロッテ』の感想文
シャルロッテはワイマルに降り立ってから「ヴェルターのロッテ」と言われ続ける。ヴァイマルは狭く,シャルロッテの到着は直ぐに街全体に伝播する。「フラウエンプラ―ン」がゲーテを指す言葉であるのも,ヴァイマル市民の教養の高さを示す。『ワイマルのロッテ』はゲーテ知識の量に応じて,より深く理解できる小説である。
ホテルの自室でシャルロッテはゲーテの秘書リーマーと会話する。彼はゲーテに人生を大きく動かされた人物である。彼はゲーテの秘書を名誉であるとしつつも,自身のキャリアの閉塞を感じている。ゲーテの引力に退き付けられたままでいることの不利益が示されるが,一方で十分にゲーテから利益も得ている。ゲーテの二面性,明暗が書かれている。
フリーデリケとの離別がシャルロッテとの離別より良心を咎めた旨のゲーテの発言が話題に取り上げられて,シャルロッテは不満を表明する。シャルロッテがゲーテのヴェルターの被害者ぶりながらも,同時にそれを武器にして世間を渡り続けていて,自分がヴェルターのロッテであることを誇りにも思っているのではないか。例えば,ブフ家の歴史が整理されるべきで,それは研究者にとっても有益であろうという意識も,ヴェルターのロッテは公に知られるべきであるという考えである。
ヴェルターの話をフリーデリケと絡ませて,シュタイン夫人の話をクリスティアーネ・ヴルピウスと絡ませて交わしてきた。ゲーテの模倣と揶揄されるアウグストはシャルロッテとの面談で雰囲気を変える。シャルロッテは初め,直前まで面会していたショーペンハウアー夫人から散々にアウグストの狂気を伝えられていたので,彼と緊張感をもって接している。しかし,アウグストと話すにつれて,徐々にシャルロッテは,危険なアウグストから可哀想なアウグストへと印象を変えていく。アウグストは確かに最後まで不気味さが残るが,私も読了後にはアウグストの狂気というよりも,あれもこれもただゲーテが悪いという印象になった。
私は,世界と自分の自己評価のズレが作品のテーマだと思う。作品前半のシャルロッテは,ヴェルターのロッテとのギャップ,人々の好奇心に苦悩していて,これまでの人生でさんざんに言われてきた質問に辟易しているように思える。ゲーテが勝手に作ったロッテのイメージをどこか他人事として捉えているのではないかと。しかし,このロッテの態度は方便であったことが後半にわかる。
第八章で,シャルロッテはゲーテ家に招かれる。当然自分はゲーテに特別扱いされると思い込んでいたシャルロッテだが,ゲーテは他の客人と平等に扱われる。彼らの話の輪の中に入れない。この場面はマンによって意図的にゲーテ会の参列人数が増やされていて,シャルロッテの落胆の効果を高めている。ヴェルターのロッテはシャルロッテにとって誇りであったが,今のゲーテにとっては未だ特別扱いをする程の誇りではなかった。
トーマス・マンの『ワイマルのロッテ』の作り方は史実として認識されていたネガティブなイメージをより深くネガティブにするものである。登場人物の間を埋めて,つながりの部分の解像度を増やして,ネガティブにする歴史小説であった。