『世界文学と俳句』より
「俳句四季」<忙中閑談>2018年9月号
及び「形象」 2018年8月号に掲載された
形象主幹 高岡修先生の『世界文学と俳句』を紹介させて頂きます。
先ず、私が所属している俳句誌「形象」の理念は、
俳句は強靭なる詩である
単一とは主観の浄化である 吉岡禅寺洞
『形象』は、吉岡禅寺洞の命名により、昭和三十年、前原東作・前原誠兄弟によって創刊された現代俳句誌です。現代に生きている強い思いを、現代の言葉で、現代の詩として表現することを目的とします。有季定型をそのまま否定するものではありませんが、それを絶対条件とするものでもありません。古い感情から脱却し、慣習にとらわれず、強靭なる詩としての俳句文学の確立を理想とします。そのためにひろく全国に同志を求めます。 ジャプラン「形象」より
(文中の太文字は私が特に胸を打たれた部分です)
私は高岡修先生に出会うまで文学にほとんど興味が無く、俳句も学校の授業で教わったほどしか知りませんでした。日記を始めても2日しか続かないくらい文章を書くのが苦手だったのですが、上記の形象の理念に強く胸を打たれ、5-7-5の17文字だったら自分でもできるかもしれないと思い、現代俳句を始めました。
『世界文学と俳句』より
<世界文学>という言葉を初めて用いたのは、晩年のゲーテであったそうです。彼は国民文学も世界文学の対立物として存在を認め、国民文学の存在意義を確立し深化させると同時に、時代や民族の制約から逸脱し超国民文学としての世界文学の理念が生れるとしたのだそうです。高岡先生は、日本語以外の言語でも俳句を屹立することは可能だと考えます。文学形式としての俳句の「存在意義」とは何かというと、「世界における一番短い詩」という在りようがもっとも重要であり、世界を極少の言語で表現する、そこにこそ俳句の真の詩精神と醍醐味があり、世界の表現史上にあっても革命的なことであったのだと。最短詩型としての俳句文学を確立するために必要とした技法が、切れ(切れ字ではない)であり、余白の創出であり、鮮烈な視覚イメージの創造であったそうです。すでに海外でも<世界俳句>という概念が生まれ、"HAIKU"という言葉が使われている今日。有季定型を否定するわけではありませんが、「時代や民族の制約から」脱した現代的な何かを付加しない限り、世界文学としての俳句は屹立しない、と高岡先生は考えられます。
私も、季節にとらわれず、それを超え、現代を生きている強い思いを残していけたら幸いです。人の俳句を体感するというのも素晴らしい経験ですが、自分で一句をひねってみるというのは、また違う世界が広がってきます。
だいたい5-7-5文字で、季語があってもなくても、自由に俳句を創る人が増えると嬉しく思います。
秋天を現在(いま)も昏れ残るツインタワー
ツインタワー・・・ニューヨークのワールドトレードセンターのことです。
*「俳句四季」<忙中閑談>2018年9月号
*「形象」 2018年8月号 ジャプラン
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