ごどうさよ
イルカの海
ほら、潮を吹いた!
子らのひとりが指さすと、みんなが、わあっ、歓声をあげて海へ駆け出しました。
「正子、魚籠もって来い」
「にい、わかった!」
兄に答え、正子は急いで、みんなの後を追いかけます。朝の太陽が白砂の浜辺に照りつけていました。
「うわあ、いっぱい!」
正子は目を輝かせます。打ち上げられた小魚。銀色の鱗があたりいっぱいキラキラと光を反射しているのです。
「にい、イカもいるよ。ハリセンボンもいる!」
子らは夢中で魚を拾いました。いくら拾っても拾いきれないくらいの大漁です。
拾い終えると、子らは海にむかって口々に叫びました。
「おーい、ごどうさよ!」
「あいがとうねえ」
「いしらのおかげだよぉ」
小魚を追って入江にやってきたイルカの群れが、手を振る子らにジャンプで応えます。そしてまた勢いよく潮を吹くと、群れは、遥か沖へと帰っていったのでした。
すっかり重たくなった魚籠を順番に引きずりながら、子らは家路を急ぎました。
「うんしょ、うんしょ」
浜辺からの一本道には、ふくたんびの実が風に吹かれてそよそよと揺れていました。
「もう少しだぞ、がんばれ正子」
いよいよ椿の垣根の角を曲がり、そこにとう様の姿を見つけた途端、正子の顔がほころびました。正子はとう様を見ると、いつでも心がパアッと明るくなるのです。
とう様は庭にいらして、飛んでくる蝶が野菜の苗に止まらぬようにのんびり見張りをしているのでした。片手に細い竹の枝を持っています。ひらひらと不安定な蝶の動きを見切って、ピシャリと枝を振り降ろす。だけれど決して蝶の羽にも、野菜の葉にも傷をつけることはないのです。蝶が青葉に止まるその刹那、紙一重のところで竹の先をくぐらせる。とう様は、風を切るのを楽しんでいるようでした。
(どうしてこんなことが出来るんだろう)
正子はいつも不思議に思ったものでした。
とう様は、忍者に違いない。兄弟たちは、そう噂していました。
「板の間を音もなく歩き、音もなく受け身をとることが出来るのだよ」
「足の親指一本で、運動場のろくぼくにぶら下がってみせてくれたのだよ」
口々に自分が目撃した、とう様の武勇を自慢していました。
正子にも、とう様のほんとうの職業がいったい何んなのか謎でした。日がな畑の蝶を追っていると思えば、時折出かけて行って、島の定時制高校の生徒たちや警察官に剣術を教えている。夕べには、村の人たちが集まってくる。とう様は、食事や酒を振る舞いながら相談事に耳を傾けます。武術の他に、医術にも長けていたとう様のところへは、からだの不調を診てもらいに来る人たちが多かったのです。治療をしても、お金は一切もらいませんでした。代わりに村の人たちは、島でとれた魚や野菜を置いていきました。
ある朝のこと。
いつものようにお膳がととのい、湯呑のお茶を一杯飲んだとう様は、ぐるりと兄弟たちを見まわして、兄のひとりの目の奥をじっと見つめました。
「おまえはね、あとで浜へいって、赤い色の海藻を採って来なさい。おまえのお腹の中にはね、3匹。虫がいるよ」
驚く兄に、
「ひーみしも、よーみしも我慢しなさい。海藻を煮てあげるから、夜はその煮汁を飲んで、あとは何も食べてはいけないよ」
翌朝です。
「出た! 出たあ! 3匹! 3匹!」
厠から兄が走り出てきました。
正子は心底すごい、と思ったのです。どうしてわかったんだろう。兄の腹から、予言どおり、線虫が3匹出てくるなんて。
この出来事は、後に東洋医学に身をおくことになる幼い日の正子にとって、いつまでも忘れられない記憶となったのでした。
決闘
今日は、子らが船着き場に集まって遊んでいます。連絡船の荷を降ろすクレーン台から、日焼けした男の子たちが次々と海に飛び込んでゆきます。青い海面に白い波しぶきが上がり、正子はきれいだな、と見惚れていました。それから正子は、まだ生まれる前のある出来事に空想をふくらませます。それは、まるで、巌流島の決闘のような時代活劇のワンシーンでした。その日はきっと今日と同じように、よく晴れた日だったに違いない、正子にはそんなふうに思えたのです。
真っ青な空。そして、大海原。
船が来る!
ゆっくりと剣豪が島に降り立つと、踏みしめた白砂が、ぎゅうっ、と鳴いた。威風堂々。その一挙手一動に隙は無し。島人がみな、憧憬と畏怖とをもって見つめていた。
ひとりの若者がこれを迎える。武術の腕は島随一。若者は、その人をひとめ見るや、ゴクリと唾を飲み込んだ。武者震いが襲った。
(彼こそは、歴戦の勇士! 百戦錬磨の面構え!)
そこはかとなく畏敬の念が胸に湧いた。
そして、同時に、身体中が熱く滾った。それは若者らしい真っ直ぐな思いだった。
「まさに千載一遇のチャンスなり! ぜひとも、手合わせしたい!」
海風が日に焼けた若者の頬を撫でた。若者に気づき、剣豪はにっこりと笑った。瞳の中には、海の色が映る。いくつも乗り越えてきた修羅の海原の色だ。
そして瞳は、己の宿命を悟った人の優しさを静かにたたえていた。
一刻ののち。いつものように夕暮れを告げる西の風が、浜砂を吹き払うように、ひゅうひゅうと唸っていた。島の海岸は、突然に切り立った崖となる。隆起した溶岩台地を、強風と荒波とが削ってできた火山島特有の地形である。いまそこに、剣豪と若者が対峙していた。
「勝負を挑むというのは、君だね」
若者は真っ直ぐな目で、はい、と頷く。
(そうか。腕に自信があるのだな。若いがいい面相だ)
暫しの沈黙のあと剣豪は、ゆっくりと話し出した。
「わたしは我が信念のために無数の剣を交えてきた。そのために多くの人を傷つけ、また、多くの友を失い、因果応報の末、こうしてここにやって来た。古き世は過ぎ去ったのだという。新しい時代の幕開けだともいう。もはやわたしは、この島に流れ着いた海の藻屑のようなものだ。なあ君、今更、剣を交えて切り合いの真似事もつまらんだろう」
だが、若者の燃え上がる思いが消えることはなかった。じっと彼を見つめた。その眼差しには、若者の純真な心が宿っていた。
「ならばどうだい? きみが望むなら、そうだ、あれはどうだ」
剣豪は切り立つ岸壁に目をやった。幾本もの草の弦が赤茶けた崖の上から垂れ下がっている。
「居合にて、あの草の弦を斬ってごらんなさい。まず、君が。それから私が抜くとしよう。君が望むよう、勝負をつけるとするか」
西風がひゅうひゅうと鳴っている。有り難い! そう答えると、若者は目を閉じて精神統一した。風に靡く草の弦を切断するには、わずか数ミリの誤差も許されない。そして再び目を開くと、震える指先がピタリと止まった。
「やあっ!」
斬っ先が一本の蔦を真横に払った。
蔦は、ポトリと落ちる。見事、鮮やかな切り口だ。
剣豪は、笑みを浮かべて、こう言った。
「素晴らしい。君ほどの腕前の者は、我が隊にもそうはいなかった」
束の間。彼は、勤王の浪士たちと生き抜いた時代を懐かしむように表情を崩したのだった。
「では。私が抜く番ですな」
ふうっと息を吐き、ジリっジリっと岩壁へとにじりよる。ひゅうひゅうと風が鳴る。
「えいっ!」
抜いた刀は、上段から真ッ下へ。
なんだと!
思いもよらないその大刀すじに、若者は衝撃を受けた。急いで切り口を確かめに、駆け寄る。
南無三!
蔦は、切断されること無く、縦に二つに裂けていた!
「神の技を見た」
感動で若者の頬に、はらりと涙がつたった。そして即座に額づき、弟子入りを乞うたのだ。
それから若者は、時を惜しまず鍛錬に励み、やがて師より免許皆伝される。この唯心一刀流の師こそ、新選組最後の隊長であった相馬主計であり、函館五稜郭で土方歳三なきあと、敗戦の将として、ここへ島送りとなった人物である。そして、島で迎えた若者とは、そうだ。もちろん、我らがとう様だ。
じりじりと夏の陽射しが子らを照らしていました。火照ったからだを冷やすように、兄弟たちは、船着き場のクレーン台から、また、ダイブを始めます。
正子の髪を潮風が撫でつけます。
なんてきれいな飛び込みだろう、正子は、そんな風景をうっとりながめていたのでした。
母
天つ〜、日嗣の、高みくら〜
千代〜、よろずよに、動きなき〜
朝の光の差し込む縁側に座って、正子がお手玉で遊んでいると、かあ様の呼ぶ声が聞こえてきます。正子は手を止めて振り向きました。
「さあ正子、氏神様にお出かけしましょう」
かあ様はとても信心深い人でした。かあ様が祈る姿は、いま思い出しても、ほんとうに美しかった。それはもう、迂闊に近づいてはいけないと思うほど。氏神様へ行くときには、かあ様はいつも正子を連れて出かけたのでした。
「いしら、そこにいたのかい」
境内の池の太鼓橋に立ち止まると、愛おしそうに目を細めたかあ様が、池にむかって呼びかけます。
「こいよお、こいよう、みなこいよ」
それは、歌うようなリズム。そして祝詞のような厳かな響きにも聞こえました。
すると、バシャ、バシャ、バシャ。水しぶきをあげて、池の底から鯉の群れが集まってくるのです。亀たちも水面から首をもたげ、水かきで必死に手足を掻きながら、ゆらっ、ゆらりと、近寄ってきます。
「すごいなあ」
正子はなんども真似をしてみました。でもどうしたって、かあ様のようにはいかなかったのです。
かあ様が祈るようになったのは8歳になった頃だそうです。病で倒れたうんばの代わりに、母は一切の家事を負うようになりました。まだ幼かったかあ様は、朝はお天道様に、夜はお月様に手を合わせたそうです。すると、泣き出したいような辛い気持ちも、すうっと消えていったといいます。
「お前たちはね、気づかないかも知れないけれど、いつも神様はいっしょにいるのよ」
ちっちゃなころの正子は、山や畑で仕事をするかあ様についていって、かあ様の握ったおむすびを食べるのが大好きでした。
「正子、お昼にしましょう。アシタバのお茶もいただきましょう」
「やったあ!」
「正子は食いしん坊ね、でも、待ってね」
かあ様には、お弁当を食べるときのいつもの作法がありました。
おにぎりをちぎってお米をいく粒か、そっと地面に捧げるのです。
「山の神様、畑の神様、どうぞお先にお召しあがりくださいな、それから残りをいただきますね」
そんなふうに大地に語りかけて自分たちの食事を始めるのです。
正子も、あっとうちゃなあ、あっとうちゃなあ、と手を合わせて、大地にお礼をしました。
アシタバは、島のあちこちに生えているスーパーフードで、摘んでも摘んでもすぐに勢いよく再生します。ミネラルが豊富で天麩羅にすると、とっても美味しいし、お茶にもなりました。
「かあ様。大地の神様におむすびをお供えするから、山のアシタバは、こんなに元気がいいんだね」
正子は、何だかとても合点がいくような気がしたのでした。
戦争
ある時、正子と兄弟のほか、島にはこどもがひとりもいなくなりました。第二次世界大戦の末期。ほぼ全ての島民が内地に疎開し、残ったのは正子の家族と、軍人だけでした。
当時、身重のかあ様のからだを気遣って、家族は残留の覚悟を決めたのでした。島は来たるべき本土決戦の最前です。軍は飛行場の建設を急いでいました。誰もいなくなった島では、食糧の配給も滞り、子らはいつも腹を減らしていたのでした。ただ、それでも正子たちは無邪気です。島からこどもがいなくなっても兄弟は仲良しで、寂しいことはありません。いつものようにきれいな海を見ながら何か面白そうなことを探していました。
「すごい波だ! よし、きょうは瀬を突かすぞ」
「にい、やろう! やったあ!」
瀬を突かすというのは子らの海遊びのひとつで、波乗りのことです。帯を解き、素っ裸になると、おのおのが板切れを抱えて大きな波に挑むのです。みな誰に教えてもらったというわけでもないのに、板切れを腹にしいて、自然と上手にパドリングをしながら海に浮いてます。
「よし、いくぞ」
次男坊のにいが、ボディボードさながらに、波の上をサアーっと滑ります。正子だって両腕を目一杯掻いて、一生懸命ついてゆきました。上のにいが、狙いすまして、波のチューブをくぐり抜けます。最高難度の大技です。技を成功させれば、やんややんやの大騒ぎ。
海を独占した子らは、もう大興奮でした。
波乗りで一日過ごしたあと、遊び疲れた兄弟たちは、黄昏時の帰り道をトボトボと歩いていました。
ぐぅーっ、
誰かのお腹が鳴っています。正子はこないだやさしい兵隊さんにもらった、おこげのおにぎりのことを思い出していました。
その時です。遥か遠くの空に、飛行機の編隊が近づいてくるのが見えたのです。七機いる!
「いしらぁ、走って来い!」
兵隊さんの呼ぶ声に、持っていた板切れを投げ捨て、兄弟たちは慌てて駆け出しました。
「敵機だ! 急げ、防空壕だ!」
野太いプロペラ音を唸らせて、七機の編隊が頭上を通り過ぎていゆきます。一目散に走る、走る。集落の外れの防空壕が見えてきました。扉のところで、かあ様が大声で子らを呼んでいる。敵機がふたたび旋回してきて、そのうちの一機が、こちらにむかって真っ直ぐに飛んで来ます。かあ様は、子らをひっつかんで、大急ぎで防空壕に押し込みました。
「撃つな、撃つな!」
正子が強く念じたその刹那、
バ、バ、バ、バ、バ、バン、、、、、、
「機銃掃射! うそだ!」
轟音と共に敵機は、茜色の空の彼方に消えてゆきました。最後に防空壕に入ろうとしたかあ様の頭上数センチのところを弾丸はかすめてはじけ飛んだのです。呆然と立ちすくむかあ様。正子は、ワァっと泣いて母に抱きつきました。兄弟たちも一勢に抱きつきました。かあ様、かあ様。
正子は初めて真実の戦争の意味を知ったのでした。その晩、正子はいつまでも震える体で母に抱きついて眠りました。
(かあ様が生きていてよかった。兄弟たちが、傷つくことがなくてよかった。とう様がご無事でよかった)
それから数日後、日本は終戦を迎えます。そして、さらに数日後、赤ん坊が生まれました。軍は去り、島の人も少しずつ帰還してきました。正子が6歳の年の夏でした。
あこがれ
ふたりの兄と三人の弟に囲まれて育った正子は、たいそうお転婆で、負けん気の強い子供でした。けれどまた一面、家族の世話をやいて母の仕事をよく助けました。小さい頃から、洋服は嫌い。島に伝わるかすりの着物がお気に入りで、正子は家で過ごすときも、学校に通うときも、いつでもそれを身に着けていました。島の衣装を着ることが、とても誇らしかったのです。
正子は、家族と、家族の暮らすこの島を、心から愛していました。そして、いちばん好きだったのは、そう。なんといったって、とう様のことでした。
正子の父、松三郎は、超人と呼ぶにふさわしい多様な才能の持ち主でした。武芸においては唯心一刀流の伝承者。芸術を愛し、その画力にも並々ならぬ才を発揮します。
月の綺麗な夜でした。それは摩訶不思議な絵なのでした。印を組み、法衣を纏った菩薩のその頭部には、馬の首が描かれています。
「とう様、これは、誰なの?」
正子が、訊ねると、
「これはね、昨日、夢に現れた観音様だよ。奇妙な夢でね。尊い教えを世に伝えるために現れたそうだ」
とう様はその夢のお告げを授かって、馬頭の慈愛に満ちた瞳や、法衣の繊細なひだまでを、余すところなく見事に描写したのです。ひと晩でいっきに完成させた仏画でした。
「正子、いつかおまえにはこの絵の意味を分かる時が来るかもしれないよ」
とう様は、確かにそう言ったのです。縁側にお団子をお供えし、正子が幼い末の弟と夜風にあたっていると、いつしかとう様の吹く尺八が聞こえてきます。その調べは、なんとも幽玄で、心に染み入る音色です。
気がつくと弟がしくしくと泣いています。
「だって、あんまりきれいな音なんだもの」
弟はそのうち、えーん、えーんと声をあげて泣きじゃくってしまいました。
正子がたくさんの、父の驚くような才能の中でも、いちばんに興味があって教えてもらいたかったのは医術のことでした。とう様の治療で癒されたときの村の人たちの笑顔を見ると、正子は自分のことのように嬉しくなるのです。
ある時、上の兄が、学校から帰って来るなり、正子、蒲団を敷いてくれと、そのまま寝込んでしまったことがありました。なんでもないから、という兄は、冷や汗をかきながら、
ウンウン、
と、唸っています。兄は、学校で大喧嘩をして、鎖骨を骨折して帰って来た のです。片方の肩が、だらりと下がり、顔は青ざめています。どうしよう、どうしよう。その様子を聞いて、とう様は黙って木の棒を匕首で削り始めました。削り終わると、大丈夫、なにも心配いらないよ、と正子の頭を撫でて立ち上がりました。
レントゲンなどない時代。手の感覚だけを頼りに、ぐいっ、と、骨を接いで添え木を当て、包帯でぐるぐると兄の肩を固定しました。
とう様は、兄の喧嘩を咎めることはなく、怒られるに違いないと、黙って寝ていた兄は、しくしくと泣いていました。
医術はすごい。とう様のようになりたい。おさな心に正子は、そう思ったのでした。
よしろう薬
家の中を、芳ばしい香りが漂ってきて、とう様が、熊笹を煎じています。何をしているのだろう、正子は興味津々です。
焦がした熊笹に、今度は、くちなしの実と生姜を足してゆく。それから卵白と小麦粉を加え、これらを丁寧に練ってゆきます。
「さあ、できたよ。これは、よしろう薬といってね、からだの傷にも、心の傷にも何にでも効く万能薬だ」
すごい。とう様は、ほんと魔法使いみたい。とう様に会いに来る島の人たちが、よしろう薬をもらって喜ぶ顔を、正子は思い浮かべます。思い浮かべているうちに、正子自身も自然と笑顔になるのです。だからこれが万能薬っていうのか。
からだに不調があったり、悩みごとがあったりすると、いろいろな人がとう様のところへやって来ます。とう様には不思議な力があって、とう様に会うとみんなが元気になる。他愛のない話をしているうちにだんだん心が晴れてきて、いつの間にか笑顔になって帰ってゆくのです。
「どんな人の心をも、やわらげることができたら、これは格別なことだ。どんなに偉い大学の先生でも、そのやり方を探求して博士号をとった人はまだいないよ。それだけ難しいことなのだよ」
とう様は、正子にそう教えました。
東洋医学には、不問診という診察法があって、患者の顔つきや色、声質、仕草、匂い、あらゆる身体から発する情報を子細に観察して病を見つけるのですが、とう様はその道に熟達していたのでしょう。
(それだけじゃない。とう様は人の心まで見えちゃうんだ)
正子はそう信じていました。
悲しかったり、楽しかったり、退屈だったり、疑ったり、素直だったり、ずるかったり。いくら隠していても、一言も喋らなくったって人の心から発する信号が、とう様にはわかるんだ。それからとう様は、そんな相手に合わせて目には見えない心をやわらげる光線を発射しているんだ。
「きっとそうだ。言葉は少くっても、とう様に見つめられているだけで心が生き生きとしてくるのだから。こんなことは、どんなに偉い大学の先生でも出来ないんだ。難しいんだ。そのやり方がわかったら、きっとノーベル賞だ」
それから、とう様は、こんなふうにも正子に話して聞かせました。
「もしも重たい荷物を持っている人がいたら、自分の荷物はそこに置いて、運んであげなさい。人のため、人の助けになることをするんだよ」
とう様は時々、子らを呼んで背中を擦るように頼むことがあって、そんなとき正子は、いの一番に飛んでいったものです。とう様のためだったら何だってしてあげる!
「とう様が疲れてる。あたしがとう様の荷物を運ぶんだ。とう様を元気にしてあげたい! 」
正子は、小さな手で、無心になって、父のからだをマッサージしたのでした。
「ほう、正子。いいところに手がいっているよ。とてもいい。その感じを覚えておいで」
とう様に褒められると、正子は飛び上がるほどうれしくなりました。もっと上手くなって、もっと褒めてもらいたい、そう思いました。
小さな頃から按摩の手ほどきをうけ、とう様の言葉どおりに手を動かしているうちに、正子は、いつの間にか人体の急所、要所というものの感覚を知るようになっていったのです。
星空
この日も、正子がとう様の背中に乗って、小さな手に力を込めてぎゅうっと押していると、
「そこは良いよ。いいところを押してくれたね。正子、とっても上手だよ」
とう様が、褒めてくれました。それから、ごどうさよ、と起き上がると、
「正子が按摩をしてくれたおかげで、すっかり気分がよくなったよ。どうだい、正子。空を眺めに、ちょっとお外へでかけてみないかい? 空気の澄みきったこんな日は、夜空がとってもきれいだろう」
目を閉じて耳を澄ませば、ただ寄せては返す波の音。島の夜は静寂です。でもパッと目を開いたとたん、見上げた空いっぱいに、燦然と星が輝いている。正子には満天の星たちが、にぎやかにおしゃべりしているように思えました。赤い星。ブルーの星。大きくて明るい星。微かに瞬く星。寄り添う星。孤高に輝く星。正子は、夜空の星を線で結んで遊び始めます。「オリオン座」の赤い星がベテルギウス。この星を見つけたら、オリオンの左の腰のところがリゲル。そこからぐるりと時計回り。明るい星を繋いでゆく。「おおいぬ座」のシリウス、「こいぬ座」のプロキオン、「ふたご座」のカストルとポルックス、「ぎょしゃ座」のカペラ、「おうし座」のアルデバラン。冬の夜空に大きな六角形が浮かびあがりました。
正子は、とう様を振り返りました。正子の後ろで、いっしょに星を眺めていたとう様は、こんなことを言ったのです。
「この地球には、人間の営みがある。しかし宇宙には、人類の知らない人々の営みがいくつあることだろう。それが宇宙というものなのだよ」
正子は、びっくりしました。そしてもう一度、漆黒の空に目をやると、真冬の澄みきった空気を伝って正子の心に星たちが語りかけてくるように感じたのでした。
(ここにいるよ、君はどこにいるの ? )
深い海の中でクジラが呼びあうように、宇宙からの伝言はヒトの耳には聞こえないだけなのかな。
( 宇宙のこと、人体のこと、心のこと。もっと知りたい!)
冷えてきたね、とう様は正子のからだをそっと抱きしめてくれました。思えばいつも正子に語りかけてくれた父の言葉は、正子を医道に導いてくれた大切な教えだったのでした。
祈り
大切にしてきたあの絵。古びた馬頭観音に正子は手を合わせます。神様は、たったひとつだけ、治療家としてのこの手を授けてくださったのだ、あっとうちゃなあ、あっとうちゃなあ。父母と離れ、島を出てから幾年月が過ぎただろう。いまでも島の言葉を懐かしく思い出します。後に馬頭は医術の神様として古来より信仰されてきた存在だと知りました。とう様、ごどうさよ。てんでいっぺえごどうさよ。
生涯をかけて打ち込み習熟した不問診法で、正子は病をよく言い当てました。それから要所、急所に金と銀の鍼を打ち、もぐさの灸を据えてきたのです。正子の特異な能力にみんなが驚きました。
(とう様がそうしてきたように、みんなの荷物を持ってあげよう、ただそう思って治療を続けてきただけだ。そうしたら少しだけ見えないものが見えてきた。からだと心が教えてくれるんだ)
正子は、まもなく傘寿を迎えようとしています。それでもわからないことだらけです。わたしたちの知らない宇宙の営みがまだまだたくさんあるのだから。
正子の父は、最後まで目の奥に虫を見つける方法を教えてくれることはなかったし、どんな教科書にもそんな診察法は書かれてはいませんでした。この世には、人知を超えた不思議な力が確かに存在しているのです。
あれは、神通力だったに違いない。とう様の力を、今でもやっぱりそう思うのです。
(おしまい)
付録:新島の方言
ありがとう あいがとう
ごどうさよ
てんでいっぺいごどうさよー
天ぐれまんぐれごどうさよー
あっとうちゃあなぁ(神仏に)
おいで こいよう
さよなら いきよう
いらっしゃい きてぃきいたかよ / きてきいたじゃん
行こうよ やーびよ
魚かご たびろっこ
しょかんかご
転ぶ すっとんぼーろけえった
忘れた うっちゃあすいた
覚えている おびーちゅう
思い出した おみーでーた
知っている ひっちゅう
知らない ひっちゃねえ しゃあねえ
◯◯をあげる ◯◯をきゅうよ
◯◯を頂戴 ◯◯をきいろよ
父 とう
母 かあ
おじいさん いんじ / おんじ(独身の)
おばあさん うんば / おんば(独身の)
男の子 にゅう
女の子 あま
良い子たち ほうべいら
わたし おい
あなた いし
家 いい / にい / ぎい / どんにい
寝室 でえ
小部屋 ちょうでえ
大部屋 あらと
台所 かまやかた
飯 みし
(朝)あさみし
(昼)ひーみし
(夜)よーみし
茶碗 ごきさら
急須 きびしょ
茶をつぐ 茶をしたむ
遊び あすびんご
鬼ごっこ くいっこ
かくれんぼ かじみんご
お手玉 おじゃみ
寒い さびー
凍える ひっこぎゅう
見た目が悪い ふうがわるい
あきれかえった おんぎあみがさゆう
お気楽な ごしょうあんぴらく
うらやましい きんなり
可哀想な しょうらしい
きれいな みごてぃ
かまきり はらったちいんぽっすい
トカゲ かまぎっしょ
毛虫 やまんば
ゴキブリ あまみ
蛾 ひーろー
ふくたんび ふうせんかずら
とうもろこし かぶろ
紫陽花 こげえ
椿の実 つばきんこーろ
島の方言には、房総や伊豆、静岡方面から渡来したと思われるもの、島特有のものの他に、はんなりと耳ざわりのよい京ことばの流れを汲むものがあるという。この島にあった流人制度の歴史を物語っているのだという。
[あとがき]
その島には水田がなかったから、何日も海が時化ると食卓にはよくサツマイモが出ました。集落の外れの沢の畔には小さなお地蔵さんの祠。耳を澄ませば清らかな水の音。 とう様は早起きして豚のお腹をブラシで擦ってあげています。豚はとてもきれい好きでお腹を上にして寝転がり目を細めています。とう様が自分より先に豚の世話をしていると犬は怒って穴を掘り返し、小屋から脱走してライバルの餌箱をひっくり返してしまう。
おい、こら。とう様は笑って犬の頭を撫でていました。
小説「ごどうさよ」は、正子が育った、そんな小さな島の物語です。
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