![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/153506475/rectangle_large_type_2_609af02cc760844f48a81d285aaea487.png?width=1200)
「信じていると言ったはずだった。そして信じてくれと言ったはずだった。」
吉田修一の作品は「さよなら渓谷」だけ読んだ。元彼が好きな小説だった。新宿のクリスマスネオンが輝く駅前の広場で、低めの階段に座り込みながら、ハードカバーの『さよなら渓谷』が私の胸元に押し当てられた。
彼は童貞だった。女性に対してどういう態度をとっていいか分からないし、その女性が自分を好いてくれている自信が全然湧いてこないと言っていた。結局、彼と付き合ってみて1ヶ月と経たないうちに別れてしまった。彼は高校生で、私は大学生だった。
私は本が好きじゃなかったので、大学生活で読んだ本はその「さよなら渓谷」も含めて10冊程度だと思う。
だけど映画は好きだった。アマプラで吉田修一が原作の『怒り』を、同じ原作者だと知らぬまま見た。
ちなみに「さよなら渓谷」も見た。背に色んなものを抱えながら、男女として小さく閉じこもり、愛と性欲が入り交じった「穏やか」な生活を送ろうとしている様が羨ましくなった。
『怒り』は穏やかな村社会に突如放り込まれた、ノイズなのか幸福の可能性なのか、図り切れない存在と対峙する人々の物語だ。
ある日起きた夫婦の惨殺事件、事件現場には「怒」と大きく書かれた血文字があった。その事件が報道され続ける中で、突如3つの小社会に「よそ者」が訪れる。
ゲイの優馬がある日発展場で出会った直人、
港町の父子家庭の前に現れた田代、
福岡から最近沖縄の島に引っ越してきた泉の前には、バックパッカーとしてやってきた田中。
彼らの素性は明確に明かされないままで、その土地には彼らとその土地の人間が紡ぐ穏やかな現実が続いていく。彼ら3人と笑い、働き、語り合う日々を日常として受け入れようとした瞬間、ぽつりと垂れてくる黒い疑念。
惨殺事件を起こした後、逃走中の殺人犯「山神一也」。
「こいつ、殺人犯なんじゃないか」
部分的に重なる、指名手配犯と素性不明の3人。
疑う気持ちが湧いてきたと思ったら、それまで過ごしてきた何気なく平穏な現実が、そんわなけないと思わせる。
「信じていると言ったはずだった。
そして信じてくれと言ったはずだった。」
映画を何度か繰り返し見て、社会人になった後小説で読み直した。
上記の言葉は、この事件を追っていた刑事が懇意になっていたセックスフレンドと話した後の言葉である。
自身の背景を教えようとしない女に、刑事は「結婚してくれ。君が何者でも俺はいいんだ。愛している。」という旨の言葉を告げた。
女は冷ややかな目で彼を見て、近付くなと言った。その後の空虚感の中、刑事の胸中にこの言葉がバウンドする。
「信じる」という言葉が。
私はここを読んで、「さよなら渓谷」をくれた例の元彼のことを思い出した。彼はまだ童貞だろうか。もうセックスは経験しただろうか。童貞であり、まだセックスが上手にできない自分を、受け入れて信じてくれて愛してくれる女と巡り合っただろうか。
それとも、そんな女なんていないと、飲み会で会った女性のことを勘ぐって、2次会に行かず帰ったりしているのだろうか。
そんなことをモヤモヤ考えて、外に出て煙草を吸って、空を見上げた。
沖縄みたいに綺麗な星空はない。ずっと東京で生まれ育ち、インターネットも本も手元に与えられないのなら、私は星というものが煌めく空など存在しないと思っていたかもしれない。
私は煙草を半分くらいまで吸った後、なんで彼は私と付き合ってくれたんだろう。付き合ったうえで、なんで女性が信じられないなんて、女である私に打ち明けたんだろう。
答えは分かっている。しかしそれを言葉にして飲み込めるほど、私は強くない。私も元彼も、『怒り』に登場する彼/彼女らさえも、怒りを抑えたり、たまに抑えきれなかったりする、弱い個人でしかない。