見出し画像

歪み・欲望・多様な個人

歪んだ欲望が、結局のところ人生を1番気持ち良くしてくれると、短い人生経験の中で思っている。
欲望は連鎖するもので、欲求は短絡的である。

欲求はそこらへんの商品棚に並んでいるもので、それを購入して使用することで済ませることができる。それが商品である以上、満たせる欲には限りがある。欲望を完全に満たす商品は存在しない。欲望を満たせたかどうかは、死ぬ前に「満たせたなぁ」と思えるかどうかで決まるんだろうなと思っている。

商品棚に並ぶ欲求解消の連鎖で、人生が華々しくなると勘違いしている、自分も含めた都市化人類が僕はたまらなく好きで、そういう人たちの毎日が結晶となったものがゴミ袋であり埋立地であると思う。

だから一眼レフを買った僕はゴミ袋を今度撮りに行こうと思っているし(今日の歌舞伎町は昼間に行ったので存外綺麗であった)、埋立地にもいつか行ってみたいと思っている。

だが、本当に好きなのは、この欲求の連鎖の中で生きることが、少しだけ虚しいなぁと気づいている人たちが、実は自分の中に自分なりの欲望を抱えていて、それを本当は追い求めたいと感じているであろうことだ。そういう割り切れないでいる人たちが、僕は好きである。

社会にひしめく個々人は、あらゆる環境から微細に影響を受け続けた、多彩な生命体である。「人間なんか考えることみんな一緒でしょ」と言って切り捨ててしまう人は、「目を凝らせていない」と言われて然るべきである。(みんな一緒と括ってしまいたくなる人の個人史も、それはそれで面白いものである)

多彩な個人と聞いて、みんなは極彩色のカオスを思い浮かべるだろうか。LGBTのヒーロー的人物?夢中で芸術に打ち込む天才?派手じゃないと、「多様性」感が出ないよな。「多様性」という言葉のもとに開かれたマーケットでは、派手な個人しか流通しない。

だが、実際多様性のある社会をしっかり見つめようとした時に、そんな派手派手な商品価値のある個人だけに目を向けるのでいいのか。
そんなわけはない。多様性と騒いで変なセミナーや議論を盛り上げ、目立つやつを祭り上げるのが多様性じゃない。

それは、「みんな同じ」と見做されがちで、「つまんない」と評されがちな個々人の、経験のミルフィーユを丹念に聞くことで見えてくるのではないか。

それを追った結果、ありきたりに見えていた、目の前のその人の、言葉が、所作が、表情が、宇宙のように果てしないものなのだとショックを受けるところから、多様性に向き合うことが始まるのではないかな。

欲しているものも、言葉としては同じでも、細かに聞いていけば、微妙に全員違う。その微妙な差異を、とんでもなく面白いものとして歓迎し合うこと。

そして、ありきたりでつまらなく見えていたその人の中に、微かな歪みを見出すこと。その歪みに沿って歩き始めることで、僕らは単線的な社会のレールから少し外れることができるのではないか。

素敵な人を探すより、目の前の人の素敵さを感受できること。「社会の中で生きる」という経験は、他者と共に面白く生きることを可能にするポテンシャルが既に含まれている。

何かつまらないと感じたら、面白いを供給するシステムに頼るのではなく、目の前を面白く見られるように、考えたい。

そしてこんなことを書いた僕は、出会った異性みんなを素敵と思えるほど、目は凝らせていない。

いいなと思ったら応援しよう!