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【読書録】キム・ミンジュ『北朝鮮に出勤します』、加地伸行『儒教とは何か』
前回の投稿で2024年最後の読書になるかと思っていたが、韓国好きな同僚に借りたキム・ミンジュ 著/岡裕美 訳『北朝鮮に出勤します——開城工業団地で働いた一年間』(新泉社;2024)を駆け込みで一気に読み切った。
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出身成分——身分制度が存在しないはずの社会主義体制の北朝鮮において、実態として存在しているとされる階層制度と階級を指す言葉。忠誠度の順に「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」の三大階層に分けられ、さらに五一の小分類があるとみられている。
南北融和の経済協力事業として北朝鮮側に建設され2004年に操業した開城工業団地(北朝鮮の度重なる軍事的挑発により2016年に操業停止→2020年に北朝鮮により爆破)。そこに栄養士として勤めていた韓国人著者によるルポエッセイ。
常に施す立場の韓国側職員と、圧政と困窮のあまり倫理道徳を無視せざるを得ない北朝鮮側職員。この非対称さが読んでいてとにかく辛い。北朝鮮の実質的な身分制度「出身成分」や相互監視制度「総和」は同じ東アジアの話だとは思えない。また南北の職員間でナショナリズムをぶつけ合う描写を読んでいると、自身の日本人としてのナショナリズムが頭をもたげているのを感じてなんとも居心地が悪い。
核心をついた話をしようとすると思想の話にならざるをえず、そうすると問題になる発言をしてしまいそうで遠回しに表現したあげく、話を終わらせてばかりだった。本当にしたい話は胸の中にしまい、うわべだけの言葉を交わして別れることになった。
北朝鮮に暮らす一般人の現状がここまでひどいということを知ると、日本人拉致問題の解決も指導部の寿命を待つしかないのではないかという気持ちになる。訳者あとがきに「本書から伝わる北の人々の息づかいは、少なくとも南北が相互理解を深めるための糸口となるだろう」とあるが、全く共感できない。著者(韓国側)と北朝鮮側の職員の一方的な贈与関係は不健全で軋轢をただただ深めているはずだし、作中でも拗れている。問題は根深い。
昨年末にサントリー美術館の展覧会「儒教のかたち こころの鑑 日本美術に見る儒教」に行ってきた。
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展覧会で展示される芸術品といえばキリスト教の文脈にある西洋美術か仏像などの仏教美術、宗教から切り離された現代芸術などが多いが、儒教に関する芸術品というものは今回初めて鑑賞した。
「虎渓三笑」をモチーフにした絵や、一緒に行った友人の「儒教は日本に入る過程で禅僧によって捻じ曲げられたと思った」という感想が(個人的にはそういった変化に面白さを感じるので)心に残った。「孔子って教祖のなかではあんまり超人的な逸話ないよな」と話したりも。確かに。
儒教のことあんまり知らないまま行っちゃったなと家の本棚を確認すると中公新書の『儒教とは何か』が差さってて、開いてみると案の定読み切ってなかったので良い機会なので年をまたいで読んだ。
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「儒」という思想の発展を原儒時代(民間のシャマニズム)→儒教成立時代(孔子による体系化)→経学時代(中央集権型国家にあわせた再体系化)→儒教内面化時代の4区分に分けて、その歴史の流れを詳らかにしている一冊。
招魂儀礼とは、祖先崇拝そして祖霊信仰を根核とする。当然、祖先を祭祀する。では、祭祀の主催者はだれかというと、子孫である現在の当主である。しかしこの当主もいずれは死んで祖霊となる。とすれば、祖先の祭祀を続けてくれる一族が必要となる。すなわち子孫を生むことが必要となる。
これを肉親の関係で言えば、
祖先……祖父母──父母──自己──子──孫……(一族)
ということになる。整理すると、(一)祖先との関係(過去)、(二)父との関係(現在)、(三)子孫・一族との関係(未来)、を表している。そこで、儒は、この関係をばらばらのものとしないで、一つのものとして統合する。すなわち(一)祖先の祭祀(招魂儀礼)、(二)父母への敬愛、(三)子孫を生むこと、それら三行為をひっくるめて<孝>としたのである。
布教の動機をもたないこの「宗教」が日本には仏教に内在するかたちや朱子学としてしか入ってこなかったせいで「宗教」としてピンとこなかった、ということが分かる。「生命論としての孝こそが儒教の中心である」とするこの一節でストンと腑に落ちた。
孔子の容子は、「温にして厲し。威あって猛からず」(『論語』述而篇)であったという。文(文飾)・質(質朴)という対比ではなくて、文官・武官といった対比で分けて言えば、文官のイメージである。事実、後世に、儒教的教養を身につけた文官(特に科挙出身者)が登場し中国社会を動かしてゆく。そしてそれが、中国文化の伝統となってゆくのである。
ところで一方、日本では、鎌倉時代から江戸時代にかけて政権を握ったのは武士階級、言わば武官である。この武官が文官向きの儒教的教養を身につけることになる。この点が、日本の儒教理解の相違の一つとなってゆく。たとえば、孝よりも忠を重視するという傾向が見えてくる。
この文官的な頭でっかちさは、のちに国家が共産主義へと接近していくことを予感させて面白い。展覧会に一緒に行った友人にも要点を解説すると、抱いていた違和感が払拭されたようだった。
孝を血族以外の共同体に適応させるために生まれた経学『孝経』、史上のテキストを実用化する『春秋』、孔子を他の教祖のように超人化して信仰する「緯学」(この学問が革命に繋がりやすいとして廃れたことが孔子が失礼ながら教祖としてパッとしない原因だった)、そして宗教性を完全に切り離した宋学(新儒学/朱子学)などなど……「孝」を軸に据えることでややこしい儒教の歴史をすっきり見通せる良書だった。
ハン・ガンのノーベル文学賞受賞記念講演のスピーチ「光と糸」を読んだ。
自身にもハン・ガンのように何か人生における根源的な問いはあるかと考えていたときに、去年ふと過ぎった「神はいかにして殺しうるか」という問いを思い出した。
宗教学/神話学/思想史/文化人類学あたりへの興味、今まで琴線に触れた作品などを踏まえて考え詰めると、どうも自分は「神の不在」や「神殺し」というテーマに強く惹かれるらしい。これが明確になったのは年初から大きい収穫だった。今年は方向性をもって本を読んでいきたいと思う。