吉行淳之介著『原色の街』読書感想文
人は皆、見たいものしか見ていない。それは、人間に対しても同じだ。つい個人的な理想や美を、他人に投影してしまう。人間を人間として見ることは、たとえそれが自分自身であったとしても、難しい。それは娼婦であろうがカタギであろうが同じだ。
あけみを不幸にしているのは、自分自身を見つめようとしない、他ならぬあけみ自身でもある。そして、彼女を取り巻く男達もまた、あけみを見ていない。元木は娼婦であるあけみに理想を抱いては、平凡な涙を流す彼女に幻滅し、薪炭商の男は、あけみが金で買った女にも関わらず、結婚の了承を得た途端、彼女が娼婦であることを隠蔽しようとする。彼らはあけみを見ているのではなく、自分の中に作り上げたあけみを見ているだけだ。そして、気持ちに整理が付かなくなる度に、自分の裸体を写した写真が、空を舞う妄想を何度もする彼女もまた、自暴自棄になり遊郭にやってきた頃の彼女と何も変わっておらず、自分自身を見つめようとしない。
愛することが、この世の中に自分の分身を一つ持つこと(p.27 新潮文庫)ならば、他者も自分も見ようとしない彼ら彼女らの愛が叶うことは決してないだろう。
水夫が海に転落した二人を助ける際に、二人の顔がそっくりだと言う。場末の娼婦と汽船会社の社員、社会の外側と内側で生きるそんな二人は、自分も他人も見ることができないという点においてそっくりだった、というとなんともロマンチックだが、作中でも言われている通り、色街での色恋沙汰の結末は、古今東西、往古来今、悲しいものだ。二人が結ばれる事はやはり無かった。
自分を見つめる事もなく、他人に理想を抱き、嘘に嘘を重ねた人間が生きる原色の街。
しかし、その欺瞞にまみれた人間の営みこそが、ありのままの原色の人間の姿なのではないだろうか。"性"という最も根源的な行為に携わりながら、社会からは無いものの様に扱われる街。それは欺瞞も同様だ。人間が本来見たく無い、無いことにしたい、人間の本来の醜い姿が、原色の街にはあった。
橙色の口紅を必要とせずとも、彼女の原色の顔が、娼婦の顔に変貌する様を見て、そんな事を思った。
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