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試小説『猫になる』

このにおいは、前橋さんだと思った。

前橋さんの座っている席の方を見ると、猫のマグカップでコーヒーを啜っている。恐らくオフィスの休憩室にあるコーヒーサーバーから注いだのだろう。
手には千葉部長が東京土産に休憩室に置いておいてくれた「東京バナナ」を持っている。甘いものに目がないのだ。

休憩室には独特の匂いが残っている。そう、あの猫の、獣の臭い。
前橋さんは一人暮らしで猫を飼っていたが、3ヶ月前に亡くなってしまった。大学生の時から飼っていて、11年ほど生きたらしい。ハチワレ猫だったので、名前を猫だが「ハチ」とつけて可愛がっていた。
前橋さんはハチが亡くなったショックで会社を三日間休んだ。

あまりにもハチを愛していたからだろうか、三日ぶりに出勤して来た前橋さんの顔は

猫になってしまっていた。

ハチワレ猫の顔のスーツを着た男がオフィスに入ってきて前橋さんの席に座ったので、最初周りの人たちは騒然とした。
しかし、あまりに淡々とその猫は前橋さんの仕事をこなすので、周りは次第に慣れていった。そして我々は気づいたのだ。前橋さんはあの病にかかっている、と。

最近この国ではペットロスで悲しみの淵に浸るあまり、飼っていた動物になってしまう病が流行っている。
しかし、どうしたことか本人は気付かない。鏡を見ても本人は人間の顔に見えているらしいのだ。
街を歩くと時々、犬やら猫やらウサギの顔を持った人が服を着て歩いている。
今のところ特効薬は見つかっていない。本人の尊厳を尊重し、むやみやたらと病気のことを本人に告げてはいけないことが法律で決まっている。

前橋さんが人間だった時の顔は、教科書に載っている織田信長の顔にちょっと似ていた。
細面で通った鼻筋、二重のアーモンド目…しかし前橋さんが信長の顔と違うのは、黒い髪の毛が生えて黒縁のメガネをかけていた。
私はメーカーの人事部の給与計算チームで働いているが、前橋さんは同じ人事部の社会保険チームで働いている。
机の島は違うが、私の席から前橋さんの姿が見える。
180センチを越える身長で、スラっとした体型にスーツがよく似合った。昔は野球をしていたらしい。しかし、信長の見た目とは反対に穏やかな人だった。
前橋さんとはあまり話したことがなかったが正直に言うと、私はほんのり前橋さんが好きだった。
仕事もできたし、多分モテるのだろう。別の部署に同期の彼女もいるのだと、風の噂で聞いていた。

けれど、前橋さんは猫になってしまった。
同僚の人たちは、あまり前橋さんと目を合わせなくなってしまった。皆、猫と仕事をしたことがない。前橋さんの周りには不穏な空気が漂うことになった。
前橋さんも周りの変化に気づいたが、しかしそれが何故だか分からない。当たり前だ。本人は人間だと思っているのだから。前橋さんはどんどん会社内で居心地が悪くなっていく。しばらくして彼女とも別れたと聞いた。

前橋さんは仕事以外の時間を一人で過ごすようになった。

だけど私は、猫になった前橋さんも好きだった。叶うなら、猫じゃらしであやしてあげたい。

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休憩時間のチャイムが鳴ったので、私は会社近くのコンビニへと向かった。私はお昼はもっぱらコンビニで買って、オフィスの自分の机で過ごすか、天気が良ければ近くの公園のベンチで食べることもある。
同期の女子のグループ行動は苦手で、入社して以来お昼はずっと一人で過ごしている。

季節は春に向けて動いている。天気も良かったので公園に向かった。どこかで沈丁花が咲いているのか、甘い香りが漂っていた。

すると、今日はベンチに先客がいた。
猫の前橋さんである。

下を向いておにぎりを頬張っていた前橋さんだが、私の気配で顔を上げた。
「浦和さん…?」

どうしたものか…引き返すのも感じが悪い。かと言ってほとんどまともに話したことがないのにいきなり話しかけるのもどうだろう…。
私は逡巡した。逡巡するあまり声が出なくなっていた。

「あぁごめん。ここで食べてるのかな?すぐにどくから」と言って慌てて前橋さんがベンチから立とうとする。
「いや、いいんです。そのまま食べてください!」
やっと声が出た。
そして、勇気を振り絞って言った。
「…隣で食べてもいいですか?」

猫の前橋さんは少し戸惑った顔をした後、ちょっとだけ嬉しそうな顔をした。誰とも喋っていなくて淋しかったのかもしれない。
「どうぞ」

私のコンビニで買ったお弁当を前橋さんは見て
「お昼はいつもコンビニ?」と聞いてくる。

「そうです…」
「僕もそうだよ。最近、しゃけやシーチキンのおにぎりにはまってるんだ。」
そう、猫の前橋さんは照れたように言った。
ポツリポツリ、私たちはぎこちなく喋ったものの、居心地は悪くなかった。
私は美容のためにアーモンドやくるみなどのナッツ類を持ち歩いておやつにしているのだが、前橋さんに
「浦和さんは本当においしそうにアーモンドを食べるね」と言われた。

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そこからなんとなく私たちは、天気の良い日は公園のベンチで一緒にお昼を食べるようになった。
私は天気予報を見るのを欠かさなくなった。明日が晴れ予報の時はワクワクしたし、雨の日はがっかりした。

前橋さんは、無類の映画好きだった。
猫のハチを抱きながら家で映画を見るのが、至福の時間だったらしい。
私は映画はさっぱりだったけど、楽しそうに映画を語る前橋さんを見ているのは好きだった。

そのうち週末に彼と映画を観にいくようになった。会社内で居場所のなかった二人の距離が縮まるのは、案外早かった。
私は150センチと小柄なので、隣に立った背の高い前橋さんを自然と見上げることになる。それも好きだ。
彼のヒゲに無性に触りたかったが、きっと前橋さんは触らせてくれないだろう。

映画を見て、前橋さんと分かれた後の私にまとわりつく猫の残り香も好きだ。あの、獣のにおい。
ぎゅーと前橋さんを抱きしめて大きく息を吸って彼のにおいで肺中を満たしたらどれだけ幸せだろうか、と考えたりもした。

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そんな日も、もうすぐなのかもしれない。
いつものように公園のベンチで二人でお昼を食べていた。
「葉子、今週末の予定はどう?」
おずおずと前橋さんがお伺いを立ててくる。最近二人きりの時は、前橋さんは下の名前で呼んでくるようになった。
「うーん。特に何も…。」
考えるふりをしたが、私の週末の予定は真っさらだった。私は友達が少ない。
親友のすみれと食事の予定があったが、それも来週だった。手帳を開けずとも把握ができるレベルである。
私の予定はたいてい空いていたが、前橋さんはいつも恭しく予定を聞いてくれた。
「そうしたら、うちに来ない?」


初めて、一人暮らしの彼の家に行くことになった。
何を着て行こう。
すみれに聞いたら「とにかくピンク」とあまり参考にならない答えが返ってきた。すみれもしばらく彼氏がいない。「まあまあ、そのまんまの葉子で行きなよ」すみれは電話口でからからと笑った。
新しい下着も久しぶりに買った。前の日はドキドキして眠れなかった。好きな人の家に行くなんて何年ぶりだろう。

前橋さんとは、前橋さんの住む最寄りの駅で待ち合わせた。
前橋さんの家に向かう途中、緊張した私はあまり何を話したか覚えていない。

「汚いけど…」
そういう前橋さんの部屋はキチンと片付いていた。本棚にはたくさんのDVDやCDが収められている。ベットには緑のシーツ。茶色のカーテン。部屋の色調はブラウンとグリーンのアースカラーで調えられている。映画好きとあって、大きなテレビがある。
捨てられないというキャットタワーがあった。ハチと彼が過ごした部屋。

ソファに座って一緒に映画を見た。映画を見終えて前橋さんを見上げると、前橋さんと目があった。
少しずつ彼の顔が近づいてくる。彼の瞳に映るものが見えた。そこに映っていたものは…

「ハムスター!?」
「猫!?」

私と前橋さんが、叫んだのは同時だった。

そう、私はハムスターになっていたのだ。
私は3年前に可愛がっていたジャンガリアンハムスターのチャコを亡くした。
チャコはアーモンドとキャベツが大好きな、可愛いやつだった。
私はおんおんおんおん泣いた。消えてしまいたいとも思ったが、それではチャコが悲しむだろうと思いとどまった。

私もあの、流行り病に罹患していたのだ。

私の場合は元々一人行動が好きだったので、特に周りとの環境が大きく変わらなかった。そのため3年も気づかずに済んだのだろう。

私たちは顔を見合わせて盛大に笑った。
ハムスターと猫が恋に落ちたのである。
でも、笑いながらちょっとだけ泣いた。

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「食べちゃいたいくらい可愛い」
時々前橋さんは私に言う。
しかし私と彼の場合は冗談にならない。私は彼と過ごす時は、注意深く過ごさねばならない。

なんたって前橋さんは猫なのだから。

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