ゴダールってどうやってロケハンしてたんだ?
5年ぶりくらいにゴダールの映画を見ました。
印象以外はほとんどが忘却の彼方ですが、たしか大学生のころに一応『勝手にしやがれ』『軽蔑』『メイド・イン・USA』『中国女』『万事快調』あたりは見ていたはずで、今回見たのは『気狂いピエロ』です。
あまりにも久しぶりにヌーヴェルヴァーグの映画を見たもので、最初は調子を掴みかねていたんですが、あれですねあのゴダールってすごいですね……!?
ゴダールらヌーヴェルヴァーグの監督たちが、「映画」や「物語における意味」を破壊してとにかく新しいものを作ろう、斬新なことをやってやろう、と意気込んで血気盛んに作品を発表していたことは、もちろん学生時代から背景知識としては知っていました。なので当時も、起承転結どんでん返しを期待して作品に挑むようなことは決してしていなかったはずなのですが、今回見た感触では、5年前の自分はそこから結局「それでも何か意味に準ずるものを汲み取ろう」としていたんだなと気付かされました。ゴダールがシナリオをきちんと書き下ろさないままに撮影に臨んでいたことは百も承知で、それでもなお字幕に集中してしまっていました。映画なのにかなり「読んで」いたんですね。二十歳そこそこで時間も知的好奇心も持て余していたので、「わからないものをどうにかしてわかろう」とする傲慢さも強かったのでしょう。前のめりでした。
今回は仕事の予定がリスケになりたまたま空いた時間でTVをつけてみた、程度のモチベーションで何も考えずに見始めたために、むしろ以前より素直にゴダールの「凄み」みたいなものを浴びた気がします。
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ゴダールの映画といえば、赤・青・黄など、モンドリアンのコンポジションのようなビビットな色彩と、絵画的な構図が特徴です。映画に詳しくない人間が見ても、なんか意味はわからんけど綺麗、とは率直に感じられるような映像表現になっています。
映画に色彩を取り込む方法としてもっとも手っ取り早いのは、メイク・衣装・小道具・セットなどをいじることです。安価で購入できるものや、一から簡単に作れるもので見え方を調整できるのならば、クリエイターにとっては万々歳ですよね(ふつうはカラックスの『ポンヌフの恋人』のように、30億かけて橋ごと作ろう!とはならないですからね)。
ビビットな差し色は、我々の視線を奪います。どうしてもそちらに意識がいって、「美しいものを見た」ような信号を、良くも悪くも早急に脳が受け取ってしまいます。なので、学生のころは「ゴダールは色彩の人だなぁ」などと思っていました。
それはそれで正しいのですが、今になって見てみると、色よりも色や構図を映えさせている他の部分、つまりそう簡単に買い揃えたりできない建物や風景が映像に与える影響の方に視線がいきました。
そこで一番気になったのが、ゴダールってどうやってロケハンしてたんだ?ということです。
実写の映画は、アニメーションとは違います。頭に浮かんだ「理想の画」を、理想のままフレームにおさめることはできません。ロケハンを経て、現実に応じて、撮ろうとしていたものを軌道修正する必要があります。しかしゴダールの撮るショットは、なんだかいちいち、世界のすべてがこの人の撮影に協力しているんじゃないかと思わされるほどに調和していて、「理想の画」に限りなく近い形に仕上がっているのではないかと思うのです。
例えば、以下のシーン。
・変えられないもの(静的):海、青空、大きい家、家を覆う蔦
・変えられるもの(動的):人、人の衣装、車
先に「理想の画」のイメージがあるのであれば、ロケハンで見つけてくるのは、「変えられないもの」の条件を満たす場所、ということになります。
この構図は惚れ惚れするほどすごいと思います。大きな青空、ドカンと建った家、手前の海。ソリッドな三要素の間を横切り、映像に動きを生み出す二台の車。車の動きに連動して立ち上がる砂ぼこり。画面左と中央の窓枠から顔を出し、ちょろちょろと動く人。
水辺と家のあいだにある程度の距離がないと車を走らせられないですし、晴れていないと砂ぼこりは綺麗に立ちません。家に蔦がはっていなかったらここまで画的なインパクトもなかったと思います。一体どうやってこんな場所を見つけてきて、撮影の交渉をして、はい撮りましょうということになったのか?
ゴダールの映画には、そういった疑問が生まれてくるシーンが山ほどあります。
もしかしたらもっと即興的なのかもしれません。撮りたい画が頭の中にあってロケハンしていざ撮影、ではなく、その辺をうろちょろしていてここで「何か」を撮りたいと思い立ちとりあえずカメラを構えてみる。
ただ、それにしてもです。
人間の視野は両目あわせて180度以上あります。私たちの身体はカメラのような知覚をしません。なので、シナリオがろくにない状態でカメラを構えたって、素人の感覚ではショットらしきショットを生み出すことはできないと思います。
自分がカメラだとする。誰かがナイフを持って自分(カメラ)に向かって走ってくる。そういうシナリオがあって初めて、その誰か、あるいはナイフ、あるいは血痕にフォーカスした画を作ることができる。構図が生まれる。
しかしゴダールは、逆のベクトルで映画を作っているように私には見えます。世界がある。景色がある。「変えられないもの」の要素がある。それを生かした構図をひらめく(それはきわめて美的なものである)。即興で演者に指示を出す。映像の連続性が保たれる。それが一応のシナリオになる。
先ほど、学生時代ゴダールは色彩の人だなぁと思っていたと書きましたが、その実、構図の天才であり即興の天才であり、そして何よりもロケハンの天才なのかもしれません。ゴダールをゴダールたらしめているのは、青・赤・黄ではない。逆に、私たちが青・赤・黄を使いこなしたとて、ゴダールにはなれない。テレビやコマーシャルの世界同様、ロケハンはアシスタントなど別の人間が担当している可能性も大いにありますが、とにかく制約だらけの「与えられた環境」の中で、映画になる画を連続的に思いつくというのは類い稀なる才能だと思います。一枚の画が浮かぶだけならば美術の方面にいってもよかったのではないかとも思いますが、二枚以上思いついて、かつそれらをつなげようとしたために映画の世界にいくことになったのでしょう。
以前、濱口竜介監督が千葉雅也氏とのトークイベントで創作の話をしていた時、たしか、自分は「会話」から映画を作ると言っていました(一方千葉氏は、むしろ映画的な、何か大きなワンシーンから小説を書くとのこと)。撮る人が言葉から、書く人が映像から創作をスタートさせているという話がとても興味深かったです。ゴダールはやっぱり画から入っているのかなと予想します。
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そういったことを考えながら映画を見ていてふと気がつきました。私は、ゴダールの映画を見ているとき、常に「作り手」側の気持ちになって見ているなと。たとえば私が芸大の学生で、映画を撮っていて、同級生にはこんな構図の天才(ゴダール)がいて、しかもとびきり美しい役者たちと懇意にしていると。そんな状況がもしあれば、私は映画をやめるだろうなと。
それに気づいたのは、同じ日の午前中に黒沢清の映画『Chime』を見たからだと思います。これはだいぶ感覚的な話で根拠が薄いのですが、個人的に黒沢清は観客を観客でいさせてくれるタイプの映画監督だと思っている節があり、全く違う二人の監督作品に同じ日に触れたことで自然と比較がなされたというところです。
ゴダールの映画は、映画を撮る側にならない限りは、そんなに真剣に見なくても、難解と言われる部分を紐解こうとしなくても、ただただ「フーン綺麗だね、まぁ好きかも」くらいのテンションで見ても良いんじゃないかと思っています。ただ、映画を撮る側になりたいのであれば、ワンシーンワンシーンの構図をスケッチに起こせるようになるくらい、穴があくほど見ておいて損はないのかなと思ったりします。
『Chime』関連ではこのインタビューが面白かったです。
黒沢清は撮ってるものの恐ろしさに比べれば、だいぶおちゃらけた人というか肩の力が抜けた人だなという印象があります。
この部分とか、けっこうチャーミングで良いですよね。
ちなみに、ここでもロケハンの話が出てきます。
この監督もゴダール同様、その場での即興的なひらめき力が異常に高いですよね(映画監督はある程度皆そうでしょうが)。
ゴダールにしろ黒沢清にしろ、私は超絶にわかなのでもっとちゃんと文献にあたったりすると、ロケハンの秘密など知ることができるのかもしれません。おすすめがあればご教示ください。