路線バス それぞれの背につづく生活
たとえば、地下鉄に乗りさえすれば最短距離で行けるようなところへ、わざわざ路線バスに乗って行こうなどとかんがえるのはなにかしら心が弱っている兆候らしい。これはもちろん自分にかぎった話だろうが。
つい先だっても、休日の朝を日比谷公園のコーヒーショップで過ごした後、ふと思い立って渋谷まで出ようとかんがえて、銀座線ではなく都バスで移動することを選んでいた。地下鉄ならほんの15分で着けるところ、わざわざ40分ちかくかけて行ったことになる。
心が弱っているとなぜバスに乗りたくなるのか? その理由は、じぶんのことながらさだかではない。
こじつけるとすれば、電車にくらべ路線バスはより人の暮らしの近くを伴走しているようなところがあり、それがすっかり乱れてしまった生活のリズムを修復するための、いってみればペースメーカーのような働きをするのだろう。
そもそもバスというのはまず時間通りにやって来ないし、停留所はあっても止まったり止まらなかったりする。あえて駅から離れた町を縫うように走る路線バスには、最短ルートをとるという考えじたいがないのだ。要するに効率的ではない。
日々仕事などしていると、とかくより早くとか無駄なくとか、いやでも「効率」というものを意識しないではいられないが、バスが大通りからわざわざ枝道へと逸れてゆくとき、寄り道することの自由さを奪い返したようでホッとするのもまた事実だ。
だからバスで移動しているときのぼくの精神状態は、バスに「乗っている」というよりはただ「揺られている」と表現したほうが適当かもしれない。
ぼんやりバスに揺られていると、ときに「え?ここってむかし終電を逃して友人と真夜中に歩いた道?」なんて古い記憶が突然飛び出してきて驚いたりもするのだが、そんなことひとつとっても「揺られている」という徹頭徹尾受け身な精神状態ゆえの副産物と言えそうだ。
バスの車内で、見るとはなく見る光景もまた然り。なじみのない町で乗り降りする人びとの姿は、自分の知らないところにもさまざまな思いを抱えて生きているひとがこんなにもたくさんいるのだという当たり前のことに気づかせてくれる。
たとえいま心のうちにモヤモヤとした感情を抱いていたとしても、そんな自分も言ってみれば“one of them”にすぎないと知れば、なにも自分ばかりが特別なわけじゃないと少しばかり気持ちも軽くなる。
見知らぬ町を走るバスの乗客になることで、言ってみれば自分の存在を相対化することができるのだ。
止まったり止まらなかったり、思いがけず遠回りしたりするのが生活ほんらいの姿であるならば、路線バスはそうした生活のあり様に近い移動手段と言えるだろう。
そして人生はつづく。路線バスも走る。
それはそうと、新橋駅の渋谷へと向かうバス停の前には「かつサンドの自販機」がある。
新幹線のホームならいざ知らず、いったい誰が路線バスの停留所で自販機の「かつサンド」を買うというのか?よくわからない。とはいえ、撤去されずにあるということはそこそこ売れているのだろう。まったくよくわからない。
どうせ頭を悩ますなら、もっとかんがえなくちゃいけないことがあるような気もしなくはないが、こうやってしばし「かつサンドの自販機」に目を奪われて過ぎる時間だってひとが真っ当に生きてゆくうえではきっと必要なのだ。