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わたしの年越し本 ’2024-’25
気がつけば、今年も“年越し本”選びに頭を悩ませる時期になった。
師走もなかばを過ぎると、いよいよ年越し本——年末年始に読むための本をぼくはとりあえずそう呼んでいる——の候補をみつくろうのだが、ただ選ぶだけでなく図書館の休館日なども念頭に周到に準備する必要があるので案外忙しい。
毎年この時期がくると、なんだか自分がせっせと巣穴に食糧を運び込む冬眠前のリスにでもなったような気になる。
リスが、はたしてどのような基準をもって食糧の備蓄量を決めているのかはさだかでないが、こと“年越し本”にかんして言えば、ただ潤沢にあればよいといった単純な話ではない。
では、休暇の長さにあわせてちょうど読み終えるくらいの冊数が揃っていればよいかというと、それもなんだか違う気がする。むしろ、読了することはさほど重要ではない。
大切なのは、かたわらに様々な本がいつでも手に取れるかっこうで積み上がっているところにある。“年越し本”とは、読書という愉しみにどっぷり浸かることで新年を寿ぐというささやかな儀式めいた意味合いもあるからだ。
以下に挙げるのは、そんな観点からセレクトしたこの年末年始の“わたしの年越し本”である。本好きのみなさんがこの年末年始、それぞれの“年越し本”とともにすてきな時間を過ごせますように。
* * *
●吉田 音『世界でいちばん幸せな屋上 Bolero』(ちくま文庫)
作者の吉田音は、なんでも「クラフト・エヴィング商會四代目」(という設定)らしい。
背表紙の内容紹介によると「カフェと屋上、シナモンとチョコレート、幻のレコードと予期せぬ出来事……」とある。おしゃれな“三題噺”って感じだろうか。悔しいけれど、そんな道具立てだけでもそそられる。
それに、こういう読みものを一冊混ぜておくだけで新年からうっかりどんよりしたりせずに済むのもよいのだ。
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●荒川洋治『文学の空気のあるところ』(中公文庫)
詩人である著者がこれまでに行った講演の中から「文学」をめぐる9篇を収めた講演集。
いま読まれていないもの、関心をひかれないものは何か。それを考えれば、逆にこの時代がどんな時代なのかが見えてくる。何か不足だなと感じたとき、何かが足りないと感じたときは、いま読まれていないものに目を向けるといい。「読まれていないもの」のなかにあるものが、いまの人には欠けているものであり、だからいまそれが必要なのだというふうに見ていくべきだと思います。
これからの読書の水先案内人になってくれそうな一冊だ。
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●「ユリイカ 2024年6月号 特集=わたしたちの散歩」(青土社)
「散歩」特集ときいて、学生のとき以来ひさびさに「ユリイカ」を手に取った。
フランス語で散歩、散策、遊歩、そぞろ歩き……などと訳される「フラヌール」。18世紀半ばのフランスでは、都市の発展と足並みをそろえるようにして街にフラヌールする人びと(=フラヌリー)の姿が目につくようになる。
観光客が目的地から目的地へとただ移動させられているのに対し、フラヌリーは「みずからの精神の日々の糧を得るため」にすすんで街を歩く。彼らフラヌリーの特徴は、散歩という行為をとおして都市を「自己観照」の場として内面化してゆくところにある(朝比奈美知子「『19世紀の首都』パリのフラヌールたち——歩く感性と都市の思想史」)。
ひらたく言えば、散歩することでひとは自分だけの地図を描いているのであり、そうしながら自分のうちに(さながら並行世界のように)自身の居場所としてのもうひとつのパリを、あるいはもうひとつの東京を、つくるのだ。
目次をざっと見渡すと、『いつかたこぶねになる日』の小津夜景によるエッセイや漫画家のかつしかけいたと柴崎友香による対談など硬軟とりまぜたラインナップで拾い読みにうってつけ。
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●アーウィン・ショー『小さな土曜日』(ハヤカワ文庫)
今年は、じぶんの「核」をなすものについて通奏低音にように思いつづけた一年だった。
そうして、高校生のころに出会い、「ああ、こういうのが読みたかったんだ」と初めて思った「ニューヨーカー」派の作家たちの短編をぽつぽつ読み返したりしていた。サリンジャー、アップダイク、サローヤン、そしてアーウィン・ショーなどなど……
彼らが書く掌編の、いったい何がそんなに魅力的なのか? それはたぶん、そこに描かれた「街の生活」と、吹けば飛んで消えてしまうような、けれどキラキラした日常の断片へのいってみれば郷愁のようなものにちがいない。
いま、歳を重ねてこれまでの歩みを振り返るとき、けっきょくたいしたことはなにひとつなしえなかったという事実をつきつけられてそのことはたしかにぼくの気を滅入らせるにはちがいないのだが、そのいっぽうで、これまで生きてきた時間に応じてポケットを探ればキラキラした断片がそれなりにたくさん詰まっているのがわかる。
そして、ポケットに手を入れさせすれば指先に触れるそんな幸福な記憶の断片が、いまも自分の現在を静かに支えてくれていることにあらためて気づきもするのである。
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●平松洋子『父のビスコ』(小学館)
タイトルも、表紙につかわれている堀江栞の絵もよいのだけれど、目次をぱっと見て気になったのが「民藝ととんかつ」という文章。
ぼくにとって「民藝ととんかつ」と聞いて思い出されるのは、子供のころ親によく連れていかれた新宿・歌舞伎町の入り口にある《すずや》というとんかつ屋である。
頁をパラパラめくってみると、案の定《すずや》という店名が目に飛び込んできてすっかりうれしくなってしまった。
ちなみに、かつての面影は失われてしまったものの、いまも《すずや》は建て替えられた雑居ビルのワンフロアで営業中である。年が明けたらひさびさに行ってみよう。
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●石川信雄 歌集『シネマ』(ながらみ書房)
モダニストの歌人が昭和11(1936)年に上梓した歌集の復刻版である。あとがきによると、ここに収録された短歌はすべて昭和5(1930)年から翌年にかけて詠まれたものとのこと。
昭和5年といえば、まさに“モダニズム元年”といってよい年。
じっさい、同じ年に刊行された龍膽寺雄の『放浪時代』『アパアトの女たちと僕と』にも通じる“フラヌール”の香りにあふれた歌集である(つまり“無条件に好き!”という意味)。
一日ぢゆう歩きまはつて知人(しりびと)にひとりも遇はぬよき街なり
人影のまつたく消えた街のなかでピエ・ド・ネエをするピエ・ド・ネエをする
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カバーをはずすと刊行当時の装丁が姿を現す。
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●キム・チョヨプ『わたしたちが光の速さで進めないのなら』(ハヤカワ文庫)
Duolingoで韓国語の学習をしていることは以前書いた。
連続学習記録も430日を超え、とうとうダイヤモンドトーナメントで入賞するまでになったものの、どういうわけかいっこうに身についたという感じがしない。それはたぶん、覚えるそばから忘れてゆく年頃のせいだろう。残念だけど。
かろうじて、「キム・チョヨプ」というカタカナ表記をみれば「김초엽」というハングルに自然と変換される程度だが、それでもK-POPのみならず韓国のテレビや文学にはずいぶんと触れる機会のあった一年だった。
今年だけでも韓国の作家による小説やエッセイを8冊ほど読んだが、この和訳もたくさん出ているSF作家の作品を手に取るのは初めて。そもそもSFじたいひさびさ。せっかくの新年なので…… とさっそくリストに追加した。
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* * *
さて、あらためてこうして並べてみると、特に意識したわけでもないのに日本の小説、海外の小説、SF、雑誌、エッセイ、歌集、講演集と見事にジャンルがバラけているのに気づく。
誰から教えられるでもなく“三角食べ”をしていた少年時代。無意識にバランスを重んじる性分(?)が、いまもどうやらこんなところに息づいているらしい。なんだかちょっと恥ずかしい。