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惹句 京都の朝はイノダコーヒの香りから

惹句という言葉がある。惹句。よい響きだなあ。

横文字にすればキャッチコピーということになるのだろうが、積極的にひとの心を捕らえにいくといったニュアンスが感じられるキャッチコピーに対し、惹句という言葉にはふんわり包み込むことでその気にさせるようなやわらかな感触がある。


――京都の朝はイノダコーヒの香りから

惹句と聞いてまっさきに思い出すのは、京都にある《イノダコーヒ》のあまりにも有名な謳い文句だ。

まだ眠りから覚めきってはいない街に、コーヒーの香りが静かに漂いはじめる。その穏やかな空気感。さらに、そこにその街の喫茶文化を牽引してきた老舗ならではの誇りまでがさりげなく込められている。とてもよくできた惹句だと思う。

この惹句につられて、僕のような単純な人間は、京都に行けば一度は早朝のイノダコーヒを訪ねずにはいられない。

香りもそうだが、朝のイノダで味わうコーヒーは昼間のそれよりさらに旨く感じられる。

そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、一度にまとまった量のコーヒーを抽出するイノダ式のやり方だと、開店早々の時間ほど淹れたてにあたる確率が高いというのは事実だろう。これはあくまでも推測だけれど。


しかし、そうは言ってもなかなか京都まで気軽に行くというわけにはいかない。

そこで、どうしても“朝イノダ”をキメたいというとき、僕は東京駅にあるイノダコーヒを訪れる。

デパートのテナントゆえ開店時間は早朝とはいかないが、平日の午前中、のんびりブランチなどしているとちょっとした観光客気分に浸ることができるのだ。

そして、どうやら自分では気づかないうちそんなオーラが全身から漂っているらしく、親切なお店の方から「お写真撮りましょうか?」などと不意に声をかけられて慌てたりするのだった。

東京店 窓に沿って湾曲したカウンター席はおひとり様にもやさしい


ちなみに、ふだんは“ブラック派”の僕も、イノダでは店のおすすめにならって少量の砂糖とクリームがあらかじめ加えられたコーヒーを味わう。

遊び半分、自宅で再現しようと試みたこともあるがなかなかどうして同じ味にならない。そしてだからこそというべきか、このコーヒーを口にすると「ああ、イノダコーヒに来たのだなあ」という気分になる。


そういえば、むかしフランス語を習ったムッシュ・バロスは、パリでもガレットを食べることはできるけれどほんもののガレットはブルターニュまで行かなければ食べられないと熱弁していたなあと思い出す。

だとすれば、ほんもののイノダ式コーヒーを味わうとなればやはり京都まで出向くしかないということだ。

朝6時発の東海道新幹線にのれば8時半すぎにはイノダコーヒに到着できる。ふとそんな馬鹿げたことをやってみたい衝動にかられる。


馬鹿げたことは、それが馬鹿げていればいるほど贅沢である。

贅沢とは、他人の目には馬鹿げていると映ることに真面目に取り組むその精神のありようを指して言うのではないか。


そんな馬鹿げたことをつらつらかんがえて過ごす“朝イノダ”のひとときもまた、まちがいなく酔狂にして贅沢だ。

ところで、この日東京駅までやってきたもうひとつの理由は、いま《静嘉堂文庫美術館》でおこなわれている展覧会を観るためだった。

それは、ことしの干支にちなんで「龍」の意匠をあしらった絵画や工芸品ばかりをずらりと並べたこれまた酔狂の極みのような展覧会である。

たまたま招待券をいただいたので観ようという気になったものの、じつはあまり東洋の美術、特に工芸品には興味がない。はたして楽しめるのか?


そんなふうにいまひとつ「とっかかり」が見あたらない展覧会では、僕はいつもこんなことをかんがえながら観るようにしている。


――どれかひとつ気に入った作品をもらえるとしたらどれを選ぶか?


ひどくあさましく、下劣な見かたであるのは十分承知だ。けれど、そうやって見るとただぼんやり眺めているときとちがって、なぜそれなのか? それのどこに惹かれたのか? といったことに気を配りながら観るので作品の素晴らしさがよりストレートに届くような気がする。


さて、今回そうやって僕が選んだのはこちらの作品。


青花透彫龍文長方盒


16世紀の中国、明の時代に景徳鎮でつくられた「青花透彫龍文長方盒」というもの。その名の通り、全体に青色の花を散らしたような長方形の蓋つきの箱である。

特徴的なのは、蓋のあちこちにたくさんの空気穴が穿たれていることで、お香を焚いたり、あるいはまた食べ物を入れたりするのに使われていたらしい。

なにより気に入ったのは、龍のうねった胴体を樹木の蔓のようにみせたデザインの巧みさ。龍のなんともとぼけた表情も魅力的だ。


――ずいぶん熱心にご覧になっていたようですが、そんなに気に入ったのなら、どうぞ、お持ち帰りください。

と、言われなかったのはかえすがえすも残念である。国宝級の品々を前に、そんな馬鹿げた妄想をする時間もまた贅沢。


そういえば、ちょうどきのう読み終えた小説のなかに出てきたこんなやりとりに吹き出してしまった。

「冷蔵庫を二台? 一人暮らしなのに?」

「そう。夢だったの、大きな冷蔵庫が二台ある家」

民子は黙った。ほんとうに必要かどうかはともかく、夢だったのなら仕方がないと思ったからだ。夢だったのだと言われたら、そこに反論の余地はない。

江國香織『シェニール織とか黄肉のメロンとか』(角川春樹事務所)


たしかに、夢だったのだと言われてしまったら、他人がそれに文句をつけるのは筋違いというものだろう。たとえそれがどんなに酔狂に映ろうとも。

これはいい。

なにか馬鹿げたことをやって、それを誰かからとがめられたりからかわれたりしたとき、なんとか分かってもらおうとしどろもどろになるのではなく、「うん、ずっとやってみたかったんですよ。夢だったんです」と答えて華麗にスルーすることとしよう、これからは。


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