死んでから注目を浴びた彼らが幸せだと、私は思わない。-たゆたえども沈まず- ファン・ゴッホ兄弟と日本画の交流
Vincent van Gogh (フィンセント・ファン・ゴッホ)
美術に疎い人でも「ひまわり」「星月夜」は絵を見れば「見たことがある」と答えられる人が多くいるだろう。
去年の今頃は、私もその程度の知識だった。
2018年までに私はひまわりのうちの1つをロンドンのナショナルミュージアムで見たし、ニューヨークを旅行で訪れた時にMoMAで星月夜を見た経験がある。
ずっと日本在住の日本人女性26歳にしてはそこそこ触れていた方だと思う。
残念ながら代表作を見ても知識欲は揺さぶられず、心を病んだ兄・Vincent van Goghと、クリエイター(画家)に憧れながら商人として働いていた弟・Theo の兄弟愛が語られることが多いなぁ、という程度で終わっていた。
wikipediaを見たって、あまりの長さと読みづらさに挫折して、年表として彼の行動は頭に入らなかった。
そんな私が初めて「Vincent van Goghの人生の一部を知ることができた」と思えたのが、2018年6月に訪れたオランダ・アムステルダムでの Van Gogh Museum を一周した時だ。
(画像引用元: https://tickets.holland.com/en/tours/van-gogh-museum/ )
名前の通り、Vincent van Gogh 一人をひたすら掘り下げて紹介する場所。
そこで初めて、彼がとても早く死んでしまったこと、最初から画家を目指していたわけではなく途中で方向転換をした結果であること、農夫の絵を描いてばかりの初期、耳を削った自画像の頃はそもそも彼の絵が高値で売れるようなこともなかったことなどを知った。
それまでの私は、彼が耳を切る頃は売れに売れていて、周りがうるさくて見せしめのために切った、くらいに思っていた。捏造がすぎる。
訪れた時のVan Gogh Museum では「Van Gogh & Japan」という展示を行っており、そこで初めてVincent van Goghが日本画、特に浮世絵に魅入られていたことを知った。
「2時間あれば大丈夫だろうけど、余裕持って3時間かなー」なんて気取って入場チケットの予約販売を買った私は、見事閉館までの3時間全てを使い、ヘロヘロになるまでがっつり見入った。お土産ひとつを買うレジに並んでいた時には閉館を知らせる音楽が流れていた。
そして終わった瞬間にもう「また来たい」と熱烈に思った。そんなことを思わせてくれる美術館、言うまでもなく最高。
(その当時の話は こちら に熱量高く書いています。正直今回改めて読んだら吐きそうなくらい読みづらいけれど、初めて知ることだらけで興奮している様子は伝わるかと。)
そんな経験から半年以上が経った2019年3月、今度は日本画とvan Gogh兄弟の関わりをクローズアップした小説に出会った。
申し訳ないが、この著者の方のことは全く存じ上げず、適当に「小説 おすすめ 2018」とかで検索して出てきたページに載っていたから図書館で借りる予約を入れた。それだけだ。
受け取った単行本の表紙にはかの有名な「星月夜」が大きく印刷されていた。
はて、私は一体何を借りたんだろうか。
読み始めて、その読みづらさに最初は苦しんだ。
目次は時系列だけ。読み始めてすぐに混乱して目次に立ち返ったら、第1章と第2章の間には80年の開きがあった。いや、それが伝わる描写にしてくれよ。
やばい、これはついていけないかも。全然ゴッホ出てこないし。誰だよ重吉って。このへっぽこ日本人の成長ストーリーなんか求めてないぞ....
言わずもがな、歴史小説はどこが史実で、どこがフィクションなのかを意識させず、読者をのめり込ませることができるかどうかが大切だ。それができなかったら、史実に興味のない人間は離れる。
評論家にでもなったかのように冷静にそんなことを考え出すくらい、冷めた心で読み進めていった。
物語が進んでいくと、重吉は観測者に徹し、林忠正はゴッホの人生のキーパーソンに昇華する。
アルス行きを忠正が提案するシーンでは「そんな雑な提案であって欲しくない」という気持ちを押しのけて「この時のためにこの二人がずっと描かれていたのか!」と、長かった序章から本編が始まったような期待が膨らみ、そこからぐいぐい引き込まれていった。
こうなるともう作者の手のひらの上なので、日本画とvan Gogh兄弟の関係が密接だと素直に嬉しいし、はやくvan Gogh兄弟が報われて欲しいと願うようになる。
この小説の中では何度もこのようなことが語られる。
ーーフィンセントは必ず世に出る。いや、自分がきっとそうしてみせる。
今すぐにではないかもしれない。けれど、焦らずにそのときを待つつもりだ。
引用したのはテオのセリフだけれど、重吉も、忠正も同じようなことを思い、語る。
ここで大切なのは、3人とも画商という「絵を売る」ことのプロであるということだろう。
プロの3人がずっと「今じゃない。でもいつか」と言い続けている中、ゴッホは自殺する。
どこにも居場所を作れず、「弟への枷となっている」という不安を誰にも相談できないまま、ひとりで抱え込んだ末の自殺。
こんなにもてはやされる絵があるのに、それを描いた本人は生きていた時にはずっと絶望していて、小さいことでくよくよして、その末に自殺するだなんて。にわかには信じがたい。
死んでから注目を浴びた彼らが幸せだと、私は思わない。当事者の感情は生きている間のものが全てだと考えるから。
他の人とは違うことをしたい、自分のできることを増やしたい。
そんな欲望を秘めてSNSのフォロワー増やしに熱量をかけて、とにかく目立つことを目指す現代に生きる私たちのどれだけが、死後に何度もクローズアップされる人になるのだろう。今だって「今認められなくても、死後にクローズアップされればいい」なんて気持ちで取り組んでいる人はそうそう居ないだろうし、そんな気持ちで取り組んでいたらきっと生きている間も、死後も、特に注目されないだろう。
さて、今これを書いている私は、何を目的に生産しているのだろう。
きっと生産行為には「こうあるべき」はなくて、作りたいものがあるから作る、それが主軸のままでいいのだろう。なんて、楽観的なことを思う。