『お前たちに何かしら遺してやりたい』【大学病院ER17日目】
前日の腕の震えはぴたっと治まっていた。薬の影響か?筋肉や神経に何か起きたのか?寒かったのか?原因はわからない。
こんな感じの「よくわからない症状」みたいなものは本当に数え上げればキリがない。けど1日(ないし数日)で治まる症状なのであれば大丈夫、続くようなら相談だ。そう思えるようになって来たのは看護にも少し慣れて来たということなのだろうか。
ちょうどクリスマスだったこの日の面会は、私にとって忘れられない出来事になった。父からとても大切なことを教わったからだ。
治療や闘病にまつわる現実的な話
父はこの日「先生と話ができませんか?」と看護師さんに申し出た。年末年始で救命救急は多忙になる。お忙しいスケジュールをぬって、2日後の外来終了後に先生が病室に来てくださることになった。
父が先生から何の話を聞きたいと思っているのか、その時にはわからなかったんだけど、前日に入院費用の話をしたのもあってか、この日は治療費や保険等の気がかりなことについて私にいろいろ話してくれた。
「現実的な話ができるまで回復してきたんだ」と確信した私は、これまでやってきた高額療養費の手続きのこと、父の医療保険加入状況について調べていること、Twitterや患者会(同じ症状を抱える仲間と伝えている)から教えてもらったいろいろな助成金についても検討していること、ソーシャルワーカーさんに相談したことなどをゆっくり父に伝えた。
やりとりをしている中で、わかったことがひとつ。
どうやら父は、治療にどのくらいの費用がかかるのか?がんの先進医療のように保険の適用がない何百万とかかるような治療をしなければいけない時、実施するかどうかの相談ができるのか?などを先生から聞きたい様子なのだ。
なんだか、雲行きがあやしくなってきた。
「高いお金がかかるなら、治療は受けたくない」父はそう思っているのだろうか?
(いや、これは私の思い込みだ。またいつもの妄想だ)そう思い直した私は思考を現実に戻して、指定難病の認定について先生にお話を伺った時にいただいた言葉を父に伝えた。『もしも保険が適用にならない治療や薬を使う場合にはスター先生が事前に相談してくださるとは聞いたよ』
そうか…と父。
もちろん、私なんかが伝えるより先生に直接伝えていただいた方が納得できるとは思うのだけど。何かを話そうとして押し黙っている父にちょっとした不安を覚えた。
『遺してやりたい』それってつまり…
救急搬送される前、かかりつけの近医から一旦家に戻った父が入院グッズを手当たり次第詰め込んできたバッグの中には、預金通帳全部と印鑑が入っていた。その時父は「もう家に戻って来れないかもしれないと思っていた」という話も聞いていた。
入院中は、父に聞きながら預金管理(引き落としがかかるものや入院費用を含めた各種振込の管理など)をしなければいけないと思っていたので、実家からそのバッグ一式を持って来ていた。
『今、それぞれの口座にはどのくらいある?』
『保険証券はあそこに入れていたんだよ』
『あっちの保険の満期は確か…』
父が家を空けて1ヶ月。いろいろな気がかりがあるのだろうということは容易に想像ができた。できる限り気になっていることを解消してあげたいと思い、頷きながら、確認しながら、ときに質問しながら、話を聞いていた。
のだけど…
父のこの一言で、私は一瞬にして話を冷静に聞いていられなくなった。
『なんとか、2人(妹と私)には、何かしら遺してやりたいと思ってるんだよ』
思い込みと妄想と目の前の父の発言が1本の線で繋がってしまったから。父は確実に「死」を、自分がいなくなることを、考えている。
(ダメだ、もう、無理)
入院してから初めて、意識のある父の前で号泣した。
それまで必死に見ないようにして来た「死」。ネットの症例は治療が奏功した例だけを選んで読んだ。Twitterや患者会だって「良くなるため」に必死で情報を探していた。グレイ先生からさんざん「最悪のケース」と言われても、スター先生に「大学病院の救命に来たから絶対に救えるとは言い切れないんです」と言われても、全然諦めきれなかった。病名がわかって、それが難病だとしたって、治療さえできれば少しでも良くなるんじゃないかと希望を持っていた。
父が亡くなることなんて考えたくなかった。父にも考えて欲しくなかった。
『お願いだから、そんなこと言わないで…私たち2人ともお父さんに良くなるまで治療してほしいと思ってる。もっと生きてほしい。もっと一緒にいたい』
『泣くのは普通、逆だろう?』
ひとしきり泣いて懇願した後、父は私にこう言った。
『母さんが亡くなって25年、俺はお前たち2人に本当に、本当に助けられて来たんだ。2人がいなかったら俺は本当にどうなっていたかわからないんだよ。いろいろと感情をぶつけてしまうこともあったし、辛い思いをさせたこともあった。それは本当に申し訳ないと、謝りたいと思っているんだよ。そういう気持ちも込めて、受け取ってほしいと思ってるんだ』
涙が止まらない。止まる気配すらない。マスクの中は涙と鼻水でぐちゃぐちゃ。しばらくそんな私を見ていた父が話を続ける。
『…なぁ。泣くのは普通、逆だろうが(笑)』
(そうだよね、そうなんだよね)
父に背を向けてマスクを外し、点滴ポンプの後ろの台にあったティッシュで鼻をかみ、必死に呼吸を整えた。
そう、辛いのは父の方だ。なぜ自分が病気になってしまったのか?運命を呪い、自分を責めたこともあったかもしれない。まだまだ60代、これからやりたいこともあったはずだ。現状を嘆き、投げ出したくなることもあっただろう。家族ともっと一緒にいたいのに…父の方が泣きたいはずなのだ。
『ごめんなさい、お父さん。私つい感情的になっちゃって』そう言って父に謝った。
父は笑ってこう言った『そしたら、いろいろ手続き頼むよ』
私は病室を後にして、しばらくボーッと考えた。
人はいつか、死ぬ。避けるな!逃げるな!
私はいつもそうだ。
目の前で起きることと妄想を悪い方向に結びつけて思い込んでしまう。
父はきっと、ただ、いつか来る(それが病気であろうがなかろうが、今だろうが先だろうが)「自分が亡くなるという事実」に対して準備をしたかっただけなのだ。
父は現実と向き合っていた。いつか来るお別れが「今日じゃない」なんて保証はどこにもない。病気になり、重症になり、いつ「それ」がやってきても後悔しないよう、今から準備し受け入れようとしていたのだと思った。
一方私はその事実からずっと逃げ回っていたんだな。亡くなるケースの症例を見たくなかったのも多分、現実から逃げようとしていたから。
母が亡くなった時は逃げる隙さえなかったけれど、母を早くに亡くしてるから「家族が亡くなること」に対しては理解していたつもりだった。いつか(それはもしかしたら思ったよりも早くに)人は死ぬ。
全然わかってなかった。今思えばわかりたくなかったのかもしれない。
(情けな…)また涙が落ちた。
そういう私に向けて父は「ここから目を背けるなよ」と言っているようだった。まっすぐに私を見つめ、自分の思いを伝えてくれた。その思いに応えていきたい。
これは後日、年が明けた元旦の、この日を振り返ってのツイートになるけど、私は父の教えを胸に刻むために1年のテーマに掲げることにした。
闘病している父は私に「見たくないものから逃げるな」と教えてくれたのだと思う。これをテーマに、今年1年踏ん張ってみよう。
— ノリ@TAFRO症候群患者家族 (@glue_TAFRO) January 1, 2020
1年どころでは済まないかもな、これ。一生のテーマになるかもしれない。だって、いい歳して、何にもわかっちゃいない。何一つ現実を受け止められてない。
別れもそう、失うこと、手放すこと、怖いこと、嫌なこと、全部見なくていいように避けて、逃げて、生きてきてしまったのかもしれない。感情的になるのもたぶん「逃げ出したい」という心の表れなんだと思う。
父の闘病に関してはまだまだ道のりは長い。とにかく絶対に救命を出る。誰に何を言われても私はそう信じてる。
でも。
「ちゃんと目を見開いて、見つめろよ。向き合えよ」
このメッセージはきっと、父からのクリスマスプレゼントだ。
私は一生、忘れない。