【ライフストーリーVol.2】イランと日本、ゆれたアイデンティティがたどり着いたのは
外国にルーツを持ち日本で育った人たちのライフストーリーを紹介。
今回は「ふるさとって呼んでもいいですか」の著者ナディさんにお話を伺いましたのでお届けいたします。
▶ナディ プロフィール
1984年イラン生まれ。91年に出稼ぎ労働目的の両親とともに家族で来日し、超過滞在のまま首都圏郊外で育つ。小学校から公立学校に通い、高校在学中に在留特別許可を得て定住資格を獲得。大学卒業後は都内の企業に勤務し、現在は2児の母。
6歳の時にイランから家族と来日し、言語も生活習慣も全く異なる環境でさまざまな壁にぶち当たりながら成長したナディさん。その体験を綴った著書『ふるさとって呼んでもいいですか:6歳で「移民」になった私の物語』の内容をもとに、彼女が実践した言語習得の方法や、自身のアイデンティティ確立に至る心の動きなどについて、今回うかがいました。
▶思いを巡らせて完成した著書
— 著書の『ふるさとって呼んでもいいですか』を読ませていただきました。この本を書こうと思ったきっかけは何ですか?
19歳の高校3年生の時に、フリー・ザ・チルドレン・ジャパン(外国の子どもの児童労働をなくすための団体)という団体で活動していたのですが、そこの事務局長さんが大月書店の編集者さんに、私のことを話していただいたのがきっかけです。
最初は私のルーツや人生のことと言うよりも、イランのことをみんなに教えるみたいな本を想定していたのですが、ちょっと時間がかかってしまって、そのうちに就職活動をしたり、会社に入ったり、経験値が増えるごとにお話をいただいた当初からは考え方が変わっていきました。最終的にまとまって、昨年どうにか出版することができました。
— その間、入管法改正がありましたが、そこに合わせて出したのは出版社の意向だったのですか?
そうです。2018年に、それまでの「技能実習」に加えて「特定技能」という在留資格が創設されて、ニュースになりましたよね。そのホットなタイミングに乗っかって本を出すという戦略が出版社さんにあったんです。
私は、もう二人目の子どもが生まれていて育休中だったんですが、仕事に復帰する前に早く終わらせたいなっていう気持ちもあったので、「じゃあやりましょう」と。それまでの5年間は、「CCS 世界の子どもと手をつなぐ学生の会」のOBと毎週末スターバックスで会っては、話をして、文字起こしをして、文章化する作業をずっとやっていましたから。
— ナディさん一人で書いたわけではなくて?
OBさんと一緒に書いていました。難しいんです、書くのって。でも、お話するのは私、割と得意なんです。どうにかこの話を文章化したいと思って、自分で書くよりも話してみようと。書くこと自体が苦手というよりは、辻褄が合わなかったり、時系列や方向性が途中で変わっちゃったりして、長い何かを書くのがすごく難しいと感じました。
— 「話す」「聞く」は習得しやすいと思うんですが、「読む」「書く」はちょっと時間がかかるものだと思います。日本語で読み書きができるようになったという感覚を持たれたのは、いつ頃ですか?
覚えてないですけど、特に問題を感じたことはなかったと思います。ひらがなを近所のおばちゃんに教えてもらってからは、どんどん覚えていけたと思います。
▶言語習得に重要な「話す質」
— イランにいたときはペルシャ語ですが、何か物語までを考えて書くということは、苦手ではなかったんですか?
イランでは、物語を考えて書くということを学校で相当やります。考えて書いたり、先生が言ったことを聞き取って書いたり、書くことに関しては、たぶん日本以上にやらされますね。本も好きで、暗記するほど読みこんでいました。
あと、1年生でも点数が悪ければ留年だし、結構厳しかったです。その中で私は上位にいたので、親とか先生から「すごい」って褒められていたようです。しかし、日本に来てから環境が変わり、漢字を読むのに時間がかかったので、小学3年生になのに1年生、2年生向けの本しか読めませんでした。それが恥ずかしくて本を読まなくなったから、書く機会も少なかったんです。でも、小学校の時、作文で表彰されたことはあります。3年生か4年生のころですね。
— じゃあ、日本の小学校に入ってすぐくらいですよね? すごい! 僕は今、外国ルーツの子供たちに日本語教えているんですけど、話せても書けない子って、結構いるんです。
「話せても書けない」というのは「話せる」の質が原因だと思います。親と簡単な会話はできるけど、難しい会話はできないということを気にしてる子も多いんじゃないかと思います。私の場合は、日本語ができるようになってすぐに親の通訳としての役割が始まって、どんな難しいことも話さなきゃいけなかったから、割と覚えていくのが早いほうだったと思います。
— お父さんやお母さんとはどんなことを話していたんですか? 例えば、本を読み聞かせして「こう、どう思う?」みたいなことはあったんでしょうか?
そういうのは、全然なかったですね。親は仕事で忙しかったので。絵本の読み聞かせをしている友達のお母さんを見て羨ましいと思っていました。
— イランではそういうのはあまりない?
すごくやってます!イランでは専業主婦のお母さんがほとんどだから、子供の勉強に付きっきり。お母さんが本を読み聞かせて「これは何?」「これはどう思か?」とか。でも家は、働きづめでしたからこんなことやれませんでした。
— 先ほどおっしゃった、書けない理由や話す質が言語習得で大事だというのはその通りで、思考する言語というのが必要なんですね。自分で考えられる言語がしっかりしてないと、深みのある話をしたり文章を書いたりするのがなかなかできないんですが、ペルシャ語でもそういう話はできますか?
私、日本に来る前にできていましたね、日本に来る前から大人の話は理解していました。
▶危機感が言語習得を早めた
— 両親に対しての通訳だと、人権とか政治とか、抽象的な言葉が必ず入ってくるはずですよね。それもペルシャ語で知っていたわけではない?
通訳でも例えば、「家賃はまけてくれないって」とか、生活に関わる話が多かったです。その中で、「警察の目についたら駄目よ」とか、「あ、入管に捕まっちゃった。〇〇警察はすぐに強制送還されるから」とか言う話が出てきた感じです。学校に入ってからは、漢字辞典でお便りに書いてある文字の画数を調べたり、国語辞典を使ったりしていました。
— 国語辞典を理解するっていうのも、結構高い認知が必要な作業だと思います。
でも、国語辞典って結構わかりやすく書いてあるんですよ。国語辞典の中にわからない漢字があれば漢字辞典に移って、その説明文の中の漢字もわからなければ調べるっていう作業はしましたけど。私は比較的簡単な言葉で書いてあると思っていました。
— 言葉を言葉で説明する能力というのは、3、4年生くらいから発達してくるんですが、ナディさんの場合は、読み書きを全然されていないのに、発達がすごく早いなって。
それは危機感。やらないと日本に居られない、みたいなすごい危機感ですね。もう、何でもいいからとりあえずやらないといけなかった。それが、勉強にはまったパターンですね。
▶言語力を維持する環境を自主的につくる
— 日本に来て最初は言葉が分からないから、お辞儀してニコっとしていたとのことですが、いつ頃から言葉が分かってきたのか、覚えていますか?
半年ほどで覚えていたと両親は言っています。そして、家の前が公園だったんです。目立っちゃいけないんだけど、四畳半の部屋に子ども三人でいられないじゃないですか。人のいない時間の公園だったら、目立たなくっていいかなと思って遊びに行って。でも午前中は2歳児とか3歳児の子どもとママさんたちが来ていて、だんだんその人たちがおやつなどを私たちの分も持ってきてくれるようになったんです。
アパートに入りたての時は、先に入居していたイラン人も「なんでお前ら来たんだよ、目立つだろ」みたいな態度だったのに、公園の人たちはウェルカムだったのが嬉しくて出かけていました。もしあそこで冷たい顔をされていたら、たぶん家に引きこもっていたと思います。
それと、近所のイラン人たちもだんだん私たちのことを気にいってくれて。それに加えてアパートの大家さんの息子がイラン人たちとすごく仲良くて同年代だったんですよ。その人も私たちの事を可愛がってくれて、イラン人たちもこういう時はこうやって言うんだよ、とか教えてくれたり。
— そういう積み重ねの中で言葉を覚えたんですね。
あと、アパートに入居して三カ月くらいでテレビが来て、そこからは急速に覚えました。ずっとつけっぱなしだと覚えますね。よく保育園の先生に、話し方がすごく綺麗と言われていました。NHKばっかり観てたから、その話し方を真似して覚えたみたいです。
— ちなみにペルシャ語は、今はどの程度話せる認識ですか?
昨年夏にイランのテヘラン大学で講演会があったのですが、そこで話はできるレベルです。私たちはいわゆるペルシャ民族ではあるんですけど、アゼルバイジャン語というのがあって、お母さんたちのトルク訛りのペルシャ語が出ているらしいです。
— 読み書きはどうですか?
ちょっとだけです。手書き文字が読めないし、難しくなく書いてあれば読めるのかなという感じです。でも書き言葉と話し言葉が全然違うので、読めても理解できないことが多いんです。 小学校一年生でアルファベットを覚えて、最初の頃は親戚と手紙のやりとりとかしていたんですが、日本語を覚えてからはそっちの方が楽しくて。親も私が日本語ができている事をすごく喜んでいたから、そっちがメインになっていきました。ペルシャ語をやりだしたのは、高校生になってビザをもらってイランに帰ってからなんです。
— ちなみに思考する言語は何語ですか?
日本にいれば日本語。イランに行けばペルシャ語ですね。
— そこはスイッチするんですね。日本語とペルシャ語は全然違うものなんだなとか、ペルシャ語だけどトルク訛りなんだなといった、言葉のスイッチングみたいな意識っていつ頃から出てきたんですか?
日本語とペルシャ語が違うと気づいたのは成田空港について、すぐにわかりました。 ペルシャ語でもない、トルク語でもない他の言語だと驚きました。でもスイッチングはこちらで制御していないので、環境が影響して切りかわるものかもしれません。言語は使わないと忘れていってしまうので、両親とはペルシャ語をつかようようにするなど気をつけています。
▶誰も助けてくれないから自分でやる
— 漢字はどうやって勉強していったんですか?
漢字は学校に入ってから、漢字ドリルなどで。3年生から入って1,2年生で学ぶ漢字はわからないから、そこはやりながら覚えていく感じでした。
— その間の勉強をすっ飛ばしていて、どうやって追いついていったんですか?
私も追いついたのは5,6年生になってからです。3,4年生のころテストがあると自分だけわからないから、終わったら友達が来てくれて、音読してくれてわかるようになりました。
— たぶん思考する力がすごく強いんじゃないですかね。
今思えば、思考する力というより、暗記していたのかもしれないです。近ごろは思考力がないと痛感することが多いです。
— いろんな物事を楽しめるタイプなんですか?
イランから来た時に貧乏で、日本に来たら借金を返すために親はお金を稼ぐ、私は家の事をやる。だから通訳も私の仕事。イランから来るときも、おばさんたちに「弟たちの面倒見るんだよ、家の事をやるんだよ」と言われていたから。日本に来ても何年かでイランに帰ると思っていたから、帰ってから日本語を生かした仕事に就くために、何かを身に付けたいとすごく思っていました。
— 押しつぶされませんよね、子どもなのに。
誰か他の女の子がいて私みたいな事をしていたら、ここまでやらなくていいよって今は思うけど、当時は「いやいや、そんな事言ってイランに帰って無職になったらあなたご飯代くれるんですか?」みたいに考えていました。実際誰も助けてくれないから、自分たちでやるしかなかったんです。
▶外見とアイデンティティは一致していなくてもいい
— ナディさんの日本に対する思いはわかりましたが、イランに対する思いは何かありますか?
今は私が思っていた以上に、かっこいい国だなと思っています。日本は忖度社会で、都合の悪いことは仲間内でもみ消すみたいな面があるから。イランにもそういう面はあるけど、例えばアメリカのトランプ大統領にも、おかしなことにおかしいとはっきり言う。その結果、経済制裁もすごいし、国民も生きにくくなっているけど、ちゃんとNOって言うし、政治と闘うし、生きてるなって感じがするんです。確かにイランには路上で寝ている子もいるので擁護するわけじゃないですが、みんな自分たちで考えてできる事をやっているところがかっこいいと思います。
— そういう認識が生まれたのはいつ頃なんですか?
この間6年ぶりに子供2人を連れてイラン行ったんですが、みんながこっちを見て、先に道を譲ってくれたり、お湯をくれたり親切でしたね。日本では授乳室も何でもあるけど、それ以外はノータッチ。イランへの見方がすごく変わりました。
心が豊か。イランでは、物価10倍になっても、心は生きている。それってかっこいいと思うんですが、そんな情報は一切日本に入って来ないんです。子どもは大人の背中を見て育つといいますが、どちらの背中を見せたいですかと聞かれたら、私はイランのほうかなと思います。
— 本にはイランと日本の間での葛藤も書かれていると思うんですけど、その葛藤が始まった時期はいつ頃ですか?
初めてビザをもらってイランに帰った時ですね。日本では、今より外国人は目立ってしょうがなかったから心の支えがイランだったんですが、イランに行ったらイラン人でもないというのがはっきりして、絶望しました。
— そうした喪失感と、どういうふうに折り合いをつけていったんですか?
6年ぐらい折り合いがつかなかったんですが、スターバックスでアルバイトをしていた時に、お客さんやバイトの子が私のことをトルコ人とかイタリア人と思っていたという話を聞いたり、日系アルゼンチン人の子がモンゴル系の顔をしていたりするのを見て、「あ、顔じゃないんだ」って。顔とアイデンティティは、一致していなくてもいいんだって思ったんです。
— いままでずっと外見でアイデンティティみたいなものを判断していたところが、違う基準になったということでしょうか?
正解は自分で見つけるしかないです。しなくてもいいのかもしれないけど、私は見つけました。やっぱり人ってどこかに属したい。何かでありたい。知りたい。ていうのがあるので、見つかると楽になります。私の場合、自分は自分です。
— ナディさんが今まで経験されてきた中で、子供に対しても大人に対しても伝えたい事はありますか?
社会を広げるということでしょうか。学校でも、先生以外に関われる人を積極的に取り込んでいくとか。日本にいたら日本以外のことは見えないし、比較できない。外から自分を見る機会を作るには、SNSでコミュニケーションを取った気になるのではなくて、多種多様な人たちとリアルで多角的に関わる機会が必要なんじゃないかと思います。