パン職人の修造 154 江川と修造シリーズ 赤い髪のストーカー
佐山歩(さやまあゆむ)という青年が、求人募集を見て面接の為にやって来た。
レジ横の、店と厨房の間のスペースにはドリンクを用意する冷蔵庫やエスプレッソマシンなどがある。2人はそこに立って話しをした。
佐山は眼鏡の奥から真っ直ぐ麻弥の目を見つめていた。
「佐山さん、うちは女性しか雇ってないのよ」
「それは性差別ではありませんか?」
「そうかしら、、」
「僕がここにいる事で何かトラブルが起こりますか?」
「それは、、もしもトラブルを起こさないと誓ってくれるなら貴方を雇うわ」
「了解致しました、必ず尊守致しますボス」
それから佐山は店のあちこちを調べて回り、物の場所をすぐに覚えた。
そして客の顔や好みを覚えておき、次に来店した時は声かけを忘れなかった。
麻弥の前で何を思っていたとしても顔には出さず、麻弥が仕事で困らない様にあれこれ手配したり、在庫の管理や店のあちこちを細やかに目配りしてくれた。
特にお店を訪れるお金持ちのマダムの機嫌を損ねない様に丁重に扱ってくれるのが有り難かった。
麻弥は他の事は気にせず安心してお菓子を作れる様になった。
オーナーの常吉は手広く飲食、アパレル関係の店舗を複数持つ実業家で、繁華街の店舗で複数店ヒットさせている。
最近は仕事の手が空くと店にやって来て、隅のテーブルに陣取って厨房の麻弥を覗きながらコーヒーを飲んでいる。まるで新しく手に入れた珍しいおもちゃを眺めている様に。
佐山はその事に気がついていたがそれも決して顔に出さなかった。
近くのテーブルを拭いていると常吉が「いいねえ」と麻弥を見ながら言ってきた。
「オーナーは以前から麻弥さんとはお知り合いだったんですか」と、トルテが乗った皿を渡しながら聞いた。
「いいや」と言いながら麻弥の作ったフロッケンザーネトルテという薄く伸ばしたシュー生地と生クリームを重ねてクランブルと粉糖をかけたトルテを、無神経にフォークで引きちぎり頬張った。
こいつはオーナーのくせに麻弥の身体だけ見て、ケーキを見もせずにこのお菓子がどうやって作ってるのかとか、作り手の苦労とか1ミリも考えていない。
そう思いながら心から軽蔑していた。
ーーーー
常吉が熱心なのを見て、佐山は麻弥がどう思ってるのか気になった。
そして麻弥が工房に行ってる間にレジの横に裏返して置いていたスマホをそっと持ち上げ待ち受け画面を見た。
コックコートを着た眼光の鋭い凛々しい男が写っていた。
背が高く髭面のその男は男の中の男の様に見えた。
常吉とは人としての成分が違いすぎる。
「これは、、どこかで見た事がある」
その後その事が仕事中ずっと気になる。
佐山は帰ってからパソコンを開きその男の事をお菓子業界から順に、様々なハッシュタグをつけてお菓子に関連する事を調べていった。
「お」
するとパンの所にその男はいた。
『パン好きの聖地』という小井沼武夫が書いたパンの名店特集の雑誌の切り抜きを、基嶋機械の後藤という男が個人垢に載せている。
そこには探していた男の家族4人の写真があった。「時を超えた夫婦の絆というのがテーマなのか」後藤のSNSのそのページを拡大して繁々見た。
「パンロンドの田所修造か、既婚者じゃないか」佐山はパソコンを閉じた。
麻弥が仕事一本で男を寄せ付けないのはこの男のせいなんだ。
しかしそのうち常吉は麻弥に言い寄って来そうだった。
「面倒臭いな」ソファに座って足を組み、ワイングラスをユラユラ揺らせながら佐山は呟いた。
ーーーー
トルテを素早くカットしている麻弥に「ボスはずっとここで仕事をするおつもりですか?」と聞いた。
「わからないわ。私嫌な事以外は何も決められないの」と麻弥は下を向いたまま蚊の鳴く様な声で答えた。
「常吉さんはどうなんですか?良いんですか?嫌なんですか?」
「それは、、」麻弥は答えにくい様だった。
「好きじゃないって事なんですね。僕も金を出すからジロジロ眺めても良いだろう、と言う様な男は最低と思いますよ」
単刀直入な佐山の言い方に麻弥は顔が赤くなった。
「嫌だわ」麻弥も小さな声で言った。
帰宅後
佐山はワインを飲みながらもう一度修造の情報を探してみた。
「こうして見ると画像も動画も結構あるもんだな」
NNテレビの過去の動画の所にも修造を見つける。照れ臭そうに映る修造を佐山は表情ひとつ変えず見ていた。
そしてつまみのローストアーモンドを一粒凄い勢いで弾き、画面に写る修造の顔に当てた。
次の日
佐山は仕事中の麻弥のところに行き、納品数の説明をして壁に紙を貼った。
そして
「ボス、鶏口牛後ってご存知ですか?」と聞いた。
「いいえ、知らないわ」
「鶏口(けいこう)となれども牛後(ぎゅうご)となるなかれ『たとえ鳥の頭の様に小さな店でも、その方が良い』と言う意味です」
佐山は『牛後』つまりずっと常吉の所で働くのかどうかと言うところを省いて麻弥を誘導した。
「小さな」
「はい。僕がどこまでもお供しますよ」
「考えとくわ」麻弥は聞き取れないぐらいの小さな声で答えた。
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休みの日
麻弥は東南駅で降り、商店街のパンロンドの周りをウロウロした。
近くの店の看板の影から見ていると、修造と髪の茶色い男の子が出てきた。
パン屋の店の奥さんや他の従業員達が出てきた。
ひときわ大きな男が泣きながら修造の手を取り何か言っている。
修造も男の子も泣いている様だ。
「お別れなんだわ」
手を振ってパンロンドから遠ざかる2人を見て麻弥はそう思った。
修造はここを出てどこかに行くんだわ。
どこに行くのかしら。
麻弥は修造の後をつけた。
修造、一緒に歩きたいわ。
麻弥が歩を進めてつい修造に近寄ってしまった時、佐山が麻弥の肩に手をかけた。
麻弥は心底驚いて振り向いた「なぜここにいるの?」偶然ここに居合わせるわけなどない、それは麻弥にもわかった。
麻弥はバツが悪そうに下を向いた。
佐山に連れられ2人は駅前のカフェに入る。
佐山は「ホットコーヒー2つ」と入り口で店員に頼み、窓際の席に座った。
「ここは賑やかな駅なんですね。東南駅に来たのは初めてですよ」
「そう」
別れ話をする男女の様に2人は気まずく、言葉少なだった。
「いつからさっきの方とお知り合いなんですか?」
「19の時からよ」
その間ずっと好きだったんだろうか?と佐山は考えた。
「ドイツで?」
「ええ、彼は同じ職場の人だったの。マイスターになる為に修行しに来ていたわ」
それで。
「8年も」と呟いてしまった。
そうか、あの家族写真の二人の子供の年が随分離れてるのは男の方がドイツに行く前に結婚していた、だから気持ちが通じなかったんだな。
「鶏口の話を覚えていますか?」
「ええ」
「僕はボスの牛後で構いません。なのでどこか小さな店から始めて鶏口になりませんか?いや、鶏口どころか牛の額にして見せますよ」
麻弥は下を向きながら薄く笑って「牛の額って座り心地悪そうね」と言った。
つづく
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