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パン職人の修造93 江川と修造シリーズ Emergence of butterfly
福咏は頭をガックリと下げた。
「すみませんでした。関係ない由梨ちゃんにもすまない事をした」
「花嶋さん、本当に移転するんですか?」
「そうですね藤岡さん。まだ計画中なのですが、どこかいい場所があったら」
「花嶋さん、福咏が、私達が移転します。この町の人達には謝罪広告を出します」
そこに由梨が口を開いた「お父さん、お母さん、私達がこの町から出ましょう。藤岡さんも言ってくれたわ。この町にいるから辛いんだって、俺ならここを離れて心機一転、新しい生活や人間関係の中で生きていくって」
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「由梨」
「大人しかった由梨が自分の意志を示すなんて」
祥雄は藤岡の力が強いと思った。
昨日の由梨と今日はまるで違う性格のようだった。
「藤岡さんのおかげなのね」
「俺は何もしてませんよ。元々のこの子の力でしょう。それと俺、もう行かなきゃ」
夕方パンロンドの集まりがあるのにちょっと忘れてた、そう思っていると祥雄が言った。
「本当にありがとうございました。縁あって助けて貰った。今後の事は親子で話し合います」
「わかりました。じゃあ」と言って由梨に会釈した。
「え?」
さっきまで強く心が繋がってる気がしたのにこれで立ち去って終わりになってしまうの。
由梨の心はもやもやと不安に覆われた。
「ちゃんとしといてくれよ」と福咏に言ってから、みんなに挨拶して出て行く後ろ姿を由梨は見ていた。
芳雄は福咏に「由梨は今朝まで深刻な状態だったんだ。あの若者に助けられたんだ」と藤岡の背中に感謝の視線を投げかけた。
「本当に謝罪広告を出します。嫁に謝って来て良いですか?」
「そうしてやれ」と言い放って福咏を店から出した。
「由梨、すまなかったね。本当に無事で良かった」
祥雄と香織は黙って立っている由梨にそう言った。
「私」
「え?」
「行かなきゃ」
そう言って由梨は走っていった。
学校で走った体育の時よりずっと、今までで1番速く。
橋を渡って道なりに行くと駅。
藤岡は駅にたどり着いて改札から直ぐの電車のドアに乗り、空いてる席を見つけて座った。
ま
良かったのかな?
今日は
いい方向に行ってくれると良いけど。
自分の人生は自分で守らなきゃ。自分で力強く生きていかなきゃね。
辺りはもう暗くホームの向こうの家々の明かりを見ながら「色んな家庭があるよな」と呟いた。
発射の合図のプルプルプルプルという音が流れる。
由梨はギリギリで電車に飛び乗って後ろ髪をドアに挟まれた。ドアはもう一度開いたのでそのスキに電車の中に転げこんで床に手をついた。
藤岡は百合を見て「電車にあんな乗り方したら危ないな」と笑って言った。
走って来たのでハアハア息が切れて恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら目は藤岡を見ている。
「あ、あの」
「どうしたの?そんなに息を切らして、俺忘れ物でもした?」
「私、今日気がついたんです。自分の人生も運命も自分で決めます!私をパンロンドで働かせて下さい」
しばらくポカーンと由梨を見て「まあ座りなよ。あのさ、パンロンドで働けるかどうかは親方が決めるんだ。俺じゃないよ」
「親方、、相撲部屋の」
藤岡はそう言われて親方が横綱の格好をしてるところを想像して笑った「ピッタリだな」
「え?」
「いや、折角電車に乗っちゃったから会う?親方に。めちゃくちゃ力持ちなんだよその人。相撲取りに見えるけどパン屋の店主なんだ」
「わかりました。会って見たいです」由梨はクシャクシャになった髪を整えながら言った。
「じゃあ心配してるだろうから家の人に連絡しておいて」
「はい」
由梨は不思議な気持ちで祥雄と香織にメールしていた。
「私藤岡さんと一緒に行くわ。今日中に帰ります」
告白が就活宣言になり、走って来た目的と違う方向に話が行ったが、今はもうとても前向きな自分がいて、藤岡の横に座りこの時がずっと続けば良いと思っていた。
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「私頑張れそうです」
「そりゃ良いね。只今従業員募集中だからね」
東南駅に着くまで藤岡はパンロンドの人達の性格や人間関係について話した。
駅前の居酒屋に入ると丁度江川が世界大会でどう活躍したのかを初めから順に説明していて、それを微笑ましそうに聞きながら修造が黙ってビールを飲んでいる。一際大きいのが親方、その横には奥さん。そして明るくて面白そうな杉本とその彼女の風香。古株の佐久山と広巻。
由梨は藤岡の話の通りだと思って微笑んだ。
藤岡の後ろにいる由梨にみんなが気が付いた。
「ちょっと!藤岡さーん。遅かったじゃないですか〜!その人誰ですかあ?」
「あ、ごめんごめん杉本。親方!面接したいって人を連れて来ました」
その時すでに酔っ払っていた親方は大声で「合格!採用!明日から来て」と言ってみんなを驚かせたが「ありがとうございます」と由梨だけは大真面目で応えた。
「ごめんなさいね、うちのが酔っ払ってて、また時間のある時に話しに来てね。2人ともここに座りなさいよ」と奥さんが話しかけてきた。
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イエ〜イ!カンパーイ
みんな由梨に乾杯してニコニコしている。
また江川が大声でみんなに説明の続きを始めた。親方は「よーし!いいぞ!その調子だ」とか変なタイミングで返事している。
みんなの輪の中に座ってわいわいと楽しい話を聞いていると、ずっとこの輪の中にいたような、いたいような気持ちになる。
「ねえ、藤岡さーん。お土産は?」
「まだ言ってんのか杉本」
「たまには俺にもパンを買ってきて下さいよー」
「食べちゃったな。そうだこれやるよ、ほらお土産」
と言って杉本に渡した。
「やった!」
杉本は白い紙の袋から出して驚いて叫んだ
「足袋⁉︎」
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おわり
Emergence of butterfly 蝶の羽化
由梨はこれから自由に羽ばたいていけるでしょうか。
マガジン1〜55話迄はこちら