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【1】戦後日本は経済大国になったけれど、言論やジャーナリズムがそんなとこにいたことはない

憂鬱、たまに絶望

ここ2年くらい、もうずっと考えていることがある。日本にまともな評論家はいないんじゃないだろうか(いても絶滅危惧種なんじゃないか)、ということだ。先月亡くなった文芸評論家の福田和也氏は、20年前の著書で、「小説は死んでいないかもしれないけど、日本の批評はもう・・死んでいる」と言った。その約20年後、故福田氏の『作家の値打ち』のオマージュ『作家の値打ち 令和の超ブックガイド』を書いた小川榮太郎氏は、日本の文壇は小説家と批評家の内輪の馴れ合いで世の中には批評のふりをした売るための宣伝文しかなく、批評家はろくな仕事をしていないと言った。

その本は、「はぁ、なるほど批評ってこの次元!」というレベルで、批評されている方の元の本をまったく読んだことがなくてもその文章を読んでいること自体で、それを主体として味わうことができる、なんというか……ヤヴァイ本

私が人生で初めて買った文芸批評本で、驚嘆してその後文芸批評本を読めども読めどもいろんな意味でこんな凄い本にはお目にかかれない。すごい、外国語読むみたい。日本語の森ってこんな深くなれるんだ──と批評の希望はここにあるじゃないか思うも、私にとってそれは希望が反転してそれは絶望の書なんですよね……なんでかって、その本はですね、定価1364円(税込)だからです……。

教科書みたいなつまんない専門書だとどうか思わないで。全員に似顔絵もあって、とっつきやすくて読みやすい本なんだよぉぉぉ

待って、待って、おかしーから。映画は2時間で観れて1500円だけど、でもね、この本頭からお尻まで丁寧に読んだら、どんなに速くとも30〜40時間以上はかかるんですよ(それくらいの時間堪能できるよ)。小説家一人あたりにつき3本程度の代表作品を読んだ上でそれぞれに個別の論評と作家に対する総評を書き、それを現存する作家100人分やるという贅沢な構成のその本は、章と章の間のコラムとかも超面白く、批評文とはそれ自体で魅力的で読むに耐える文章でなければならないとはこういうことか!!!!を全力で体現したような怒涛の350ページ。その本を書くって、イメージとしてはたった一人でミシュランを書く感じと言うのだろうか(しかもミシュランて毎年結局は微々たる焼き直しですが、ベースとなるもの何もないところから一人で書くんだぞ、、、)。

福田和也氏が先の本で、100人に対して似たような言葉で褒め、同じようにけなすわけにいかないからこそ書きわけるのが難しかった、しかしけなすとは技術なのである──と言うのだけれど、小川版の方が仕事の緻密さで言えばはるかに上をいくと思うの、100冊200冊読んで語ることと一緒にするなかれ、505冊読まないと書けない本を書く労の……すさまじさよ……(私なら5冊で満足、15冊目で多分吐き気)


その果てに与えられる値札が、1300円……???


これを特殊な専門書扱い(?)せず、普通の人が普通にぱらりと手にとって読む本としてみてほしいと思うと、1300円が価格設定の限界なのかなぁ……悶々としつつ、外出ついでに代官山の蔦屋書店のいつも見ないような建築コーナーをふらふらしていたら、普通に5000円とか6000円の本があって、驚愕しながらやるせさが溢れてきた。凝った装丁だったり、アート的な価値もありそうではあるんだけど、いかんせん、いうてこれも本は本ですから。。。ほら、これだけ専門性がある本って、学術書じゃなくてもこういう値段つけていいんじゃん……!!!!


ビジュアル的な価値が明瞭な「写真」に比べて、文字なんて、感想なんて誰にでも書けるって思われる分野だからなのか……なんというか、価値が証明しづらい価値を持つものって、せつないですね。。。

ちなみに、ピカソが街中で頼まれて30秒でさらさらと絵を描き、いくらかと聞かれて100万ドルと言い、いくらなんでも高すぎない?と驚く相手に、私はこれを30秒で描いたのではない、30年と30秒が必要だったのだと微笑んだという話は有名な逸話だけど(実際には真偽不明な都市伝説らしいけど、ニュアンスはすごくわかるよね)、批評とか評論というのも、それと同じである。一つのものを見てパッと浮かぶ考えであっても、それは知識を増やしてきた上のケミストリーとしてのアウトプットであって。何もないところに素晴らしいものだけ(あるいはクソなものだけ)見ても、言葉なんて出てこない。その505冊の前には別の1000冊があって、それでやっとその505冊を読んだ「感想」が書けて──。それ、私1300円じゃ申し訳なくて読めない。

だって、正当な対価を支払われなければ、それは仕事として存続しないもの。だから、消えていくしかないんですよ。そういう仕事・・は。

批評の質を「批評」する人はいないの・・・?

本物の批評が消えていく一方、「批評」のカジュアライズは進んだと思う。今の世の中、求められているのは、凄みなんてない、解説と批評の中間地点の「一般人の解説」くらいが好かれるんだと思う。エンタメ解説系のYoutuberとか、小川氏の1/50くらいの質の仕事をする気鋭と言われる文学評論家とか、まさにそうだなと思う。その人たちの言葉がそこまで面白いかって、そんなことない。それでも、その人たちよりもっと言葉を持たない人には、ちょうどいいくらい刺激的。
 
それが悪いとは言ってない、というか批評の本質は、言葉やその表現がフォーマルで堅苦しいことじゃなくて、言ってることの中身にしかない(だから物々しく書いた、たとえば「〜に於いては」とかそういうやつ……してその中身はすんごい安易なことしか書いてない……を以って格が高いって考え方は死ねと思う。死ねばいいんだよ、そんなのは)。でも、PVや売上といういわゆる大衆の人気を博すかという点とは別の軸で評論の仕事に評価を与える文壇というのは不思議なほどにないのだなと思う。まあ、どれだけ研鑽を積んだ仕事をしても、適当に凡人のちょい上くらいの感想文を書いても、師業と違って、名乗れば今日から、が評論家ですからねぇ……。

ところで、評論部門の新人賞(新潮の新人賞、群像の新人賞等)は、学術界の博士号みたいな存在であったという言葉を先日どこかで読んだのだが(ここでした)、へー!そんなものがあるのかと思ったのもつかの間、日本で評論の新人賞は、ここ15年ほどで全部がなくなった(廃止された)ことを知った。なるほど、価値の大暴落とものさしは崩壊した世界では、その世界が与えるはずの「箔」も無意味ということか。箔よりダイレクトな求心力(顧客フォロワーを持っている)が重要だから、手間暇かけてそんな発掘なんてしませんよ、ということか。

なぜそれがそんなことを悶々と考えていたかって、小川榮太郎氏の作家評を見て、理解したことがあったからだと思う。評されている100人のうち読んだことがあるのは20〜30人くらいでしかなかったが、パラレルにその対象と言葉をいったりきたりすることで、書くという言葉の向こう側に広がる果てしない海の波の輪郭がはじめて見えていくような気がした。感覚は言葉に出会うことでその自我を確認できる。言葉に出会うことによってのみ、ほぐされる感覚がある。「書く」の向こう側をここまで見せてくれた本は、他にはない。そして思った。「小説」なら、こう評される世界があるのか-―。 

村上隆、草間彌生は、彼らの本の中で幾度となく欧米に比べて日本にろくな批評がないという、その言葉の意味がその頃はわからなかった。でも令和版作家の値打ちを読んでわかった。なるほど、批評ってこういうものだったんだ、って。こんな風に読まれるなら、書く人はすごい幸せだよね。部数でもPVでもスキの数でもない、こんな鏡があるのなら……。


ところで小川氏は、作品の面白さを社会に伝えるのが批評の仕事(そして面白くない作品を絶賛する批評こそが現代の文壇の病理)というけれど、対象を解説する行為の間近な例としてスポーツ解説をあげると、それがなぜその真価を広く伝えるために重要か、文章を書かない人にもわかってもらえるんじゃないかと思う。

ソチ五輪の浅田真央を「氷の女王」と言える解説者が日本にいるか

20年来のフィギュアスケートファンでプチオタな私は、貴重な試合は日本の放送だけじゃなくて、カナダ、アメリカ、イギリスの放送と少なくとも英語のやつはネットで全部見るのだけど(ロシア語やイタリア語やフランス語も英語字幕で見る。改めて書くと変な趣味)、それって解説者によって全然違うように見えるから(というかスケートの専門家じゃない私は、教えてほしいんですよ、それを!!!!)それで、やっぱりアメリカの解説は、解説者の個性が強くて、誰にでも同じこと言ってるなって感じの真逆で面白いんですよ(中国もことわざとか漢詩引用したり味わい深い)。

で、一番つまんないのが日本の解説……。

例えば、浅田真央のソチ五輪のフリー。競技人生で実質三度目の五輪シーズン、競技人生の集大成として満を持して金メダル候補で挑むも悲劇的なショートの結果、まさかの16位という位置につけ、金メダルどころかメダルも絶望視される状況からの、フリーの演技。

これ見るだけで蘇りませんか・・・!

日本の解説はねぇ……ジャンプ全て成功です!(←見てれればわかる)ガッツポーズも出ました!回転不足はどうでしょうか?いやぁ素晴らしかったです……!を解説と呼ぶのだが、アメリカの解説は……:

「これ以上に勇敢で、感動的で美しいスケートは今夜もうないだろう。」

「……なんたる勇気。至上のアスリートの最高峰、精神的な強靭さ、身体能力、ヘロイズム(果敢さに対する最上級の賛辞)。これはそういうものの全部だ。このパフォーマンス!!!!この後誰が表彰台に上がるかなんてどうでもいい、これこそがこの五輪の記憶として私がずっと覚えているものだ。
もし、キムヨナが“女王”なら……(ここで言葉をゆっくり探し、一拍空けて)……真央は “氷の女王”…だね。彼女はあまりに、あまりにも美しい」

って言うんですよ〜〜〜!!!!

氷の女王ってすごい褒め言葉だと思うの。。。フィギュアスケートってしょっちゅう採点ルールが変わるすごく政治的なスポーツでもあるんですよ。キムヨナをその時の競技のルールをうまく活用したスケーターとして、「女王」とその強さを引用しながら、でもヨナが「女王」なら、Maoは氷の女王だねって……それって、その時の権力者が決めた採点基準やら何やらなんぞもはや超えたところで、その選手を讃える言葉なわけで……。

アメリカの解説はコメンテーターの感情を隠しもしないんですが、この時の畏敬にうたれたような言葉の使い方はこんなフィギュア解説見たことないレベル。beautifulの極頂を指す言葉がexquisiteなんですが、真央は氷の女王だという言葉に続く、she is just exquisiteとさらに強調する言葉は、“ただただ、美しい……”みたいな感じですね。そして勇敢という言葉(brave)のはるか上をいく言葉がheroism(英雄的行為)なんですが、ヘロイズムだ、至上のアスリートの最高峰、ジャスト・イクスクイジットだと、途轍もない言葉連発なわけです。

ジョニー(上記の発言者)と一緒に解説をするタラ・リピンスキー(長野五輪の女子フィギュアの金メダリスト)は、「信じられない」を連発しながら、「ああもし、彼女が16位につけてなかったら……それでこんな演技をしたら…ああ……」と嘆息しながら、「でも、彼女が16位にいるからって、それ・・は彼女が世界で最高のスケーターの一人であることを否定しないの」ときっぱり。まあ、順位なんて今夜の浅田真央を測れねーんだよ!!!と二人揃って言っているわけで、日本の解説者はもうそこしかしゃべることがないのかな?と思う回転不足については、ジョニーは真央は彼女のやり方でやり遂げたという答えに重ねてこう言います:


Johnny Weir:
「これは、ジャッジがなんて言うかとか回転不足かとかそんな・・・問題じゃなくてね————この“瞬間”の問題なんですよ。これこそが私たちがフィギュアスケートを観たい理由なんですよ。」

これこそが私たちがフィギュアスケートを見るのを愛する理由とおっしゃるジョニーよ、はぁぁこれこそが私たちが英語でスケート見るのが好きな理由だよ!

これも「批評」の一種ですよね。リアルタイムで観ながら言わなきゃいけないなんて、超難しいよ……!!!

そう、そういう言葉でしか解説されない魂というものがあるから。

***

日本は現代美術と文学が一番遅れていると自著で語る草間彌生は、次のようにいう。

「文化のレベルがどうこういうよりも、ジャングルの次ぐらいにある状態としか思えない」

この一文の破壊力のすごいこと。おかしーーー!って叫ぶより、草間彌生もそう言ってるわ!!!!の後光にあずかろう。でもさ、批評がないって、そういうこと。「文化人」という微妙な活動家・学者崩れさんのExit(一抜けピ街道)がテレビコメンテーターで、その仕事を判断するのは……大衆?(だから〇〇みたいなのがいるんだよ、と書いたら〇〇にみんなが思う名前をそれぞれあてはめられそう。杉村T蔵、三浦R璃、T田恒泰……すべて敬称略)

スポーツ解説に例を戻せば、記憶に新しいパリ五輪では、「13歳、真夏の大冒険!」「スケボーに恋した14歳!!」……ツイッターでもさぁ……アナウンサー名言残そうとしてウザいって言われてたけど、狙ってるものが名言になってもいないんだよ。。。たしかに……ジャングルの次くらいにある状態……

でも、採点競技のスポーツにおいては、言葉はセカンダリーで、その姿をもって自己説明的な部分は芸術よりは多いと思うの(ジャッジという一次評価者はいるわけだし。。まあ彼らが評価できないことを言葉にできるのがいい解説者なわけですが)。やっぱり言葉の芸術が一番、批評されないときつい、きついってか、完成しないんだよ、という感じ。 

鋭利な言葉というのは不完全、不完全だから鋭利なの

ジョニーの解説って、直球に見えて実は婉曲的でもあり。たとえば、「この何が起こるか、誰が表彰台に上るかなんてどうでもいい──」と言い切るその言葉の凄さは、浅田真央がいつ滑ったのかを考えると、なおさらジーンでしかないのです。

フィギュアスケートってショートプログラムとフリープログラムの合計得点で順位を競うので、初日の出来が、予選と本戦みたいにリセットされるわけじゃないんですね。しかも、フリーはショートの点数が低い人から滑るので、最終グループというラスト6人に入っていないことにはどれだけ素晴らしい演技をしても点数が抑えられてしまうという、私のようなノンスケーターにはその必然性がさっぱりワカンねぇ!!!!素晴らしい演技には何番目に滑ろうと同じ点数が出るべきでは?!?!?!と言いたくなるスポーツなんですが、その時の浅田真央は、「そんなところで浅田真央が滑ったことあったっけ・・・」という異例の位置で演技順が回ってくるわけです(あと、たとえ最高の演技をしてもメダルには届かないだろうという悲しいプロスペクトつき)。見る方からしても、浅田真央の後にあと10何人もスケーターが残ってるって「ざわ…ざわ……」みたいな状況なんですね。つまりは、銅も銀も金もこれから!って時点で、ジョニーウィアーは、「もうあとはいいや」って言ったんですよ。。。だって「これこそが、俺がこの五輪で覚えてることだから」……。えっぐ…えっぐ……。。。

私くらいのスケオタファンには別に私の解説はいらないと思うの。ジョニーの言葉だけで感動できる。でもその輪のもう一つ外にいる人には、私の説明をもって、ジョニーの言葉の真意をはじめて深く受け取れる人たちがいると思う。そうやってオーディエンスのレイヤーをブリッジするのが、批評や解説の役目で。たとえば、浅田真央の世界をジョニーが言葉にしなかったら、私は浅田真央を評するファーストハンドの言葉を持たないんですが(誰か教えてくれぇぇぇ・・・でしかない)、ジョニーの言葉を通してそれを咀嚼し、それをもう1レイヤー外側へ解説することを通してなら、浅田真央のすごさを伝えられる。それで浅田真央のメダルの数が増えるって話じゃないですが、言葉がさざなみのように価値をつないでいく瞬間とは、私はこのことだと思うのです。

でも、批評の力を知らない社会では、批評とは、やらない人の見物、無用の長物のように思われているらしい。スタートアップ界隈のツイッターで、先日、必要なのは起業家で、批評家まじ要らねえという言葉を見かけた。やる奴がえれーんだよ!みたいな阿呆な二元化論にはたまらなくなる。やめてよ批評にどう救われるのか、知りもしないで──

「創造」と「批評」、あるいは行動と解説は、二律背反の敵対関係じゃなく、むしろ相互依存関係にある。だって、創造する人(それをやる人)がいなければ、批評家(解説者)は存在できない。でも批評家が一方的に芸術家に寄生して生きてるわけじゃない。芸術家はまた、その不完全な宿命を、完全なものにしてくれる批評を待っている存在。すべての芸術的な営みとは、その鋭利さにこだわるほど、それ単体で説明をしきらないず不完全であることを宿命とし、それを評する言葉を持って完全なものへとなっていく。そしてそのまばゆい光に出会いたいと願わない芸術家なんて いない。


でも今の日本社会に批評の質を問うという機能はないのだと思う。だって小川榮太郎のあの労作を1300円で売る社会だよ。あれがアメリカで13ドルで売られることはないわ。あれにそんな価値しか与えられないなら、批評は滅びる一方だよね。そして、てっきり文学評論の頂点にいる人が書いた本なのかと思っていたら(だってそれくらい言葉に余裕ある)、その人は文学評論で食べてこれた人ではないという信じられない事実を知って、私は一週間くらいお通夜な気持ちを過ごしてしまった。

「『文藝評論家』小川榮太郎氏の 全著作を読んでおれは泣いた」を読んで、私も泣いた。これは罪なです。。

……論客がまともに成熟していくことは、ほとんど無理な社会なんですかね。

でも、視覚のアートでも身体表現でもなく、言葉という言語依存性の高いミディアムに芸術を見てしまう人にとって、その社会の批評が薄いって相当絶望的である。

村上隆や草間彌生は、日本を捨てて、海外で欧米の批評家に書かれることでレピュテーションを国内に逆輸入していった芸術家たちである。私はlanguage dependanceが低い表現、国境を越えやすいミディアム(視覚や音楽、あるいは身体表現)に表現のアウトレットを見た人たちが羨ましい。英語学んで外に出ていけばいいと思うレベルは超越した。アメリカの学位なら持ってるし、英語で論文書けるよ。というか「研究」ならアメリカですればいいんだよ、それは論理と証明の世界だから。そこでは情感よりも論理的に言いたいことが言えれば良い、でも表現の世界は、それをどう崩すかこそにあって、それが自分の98%か99%を競うところに存在する、7割言えてるからオッケーみたいなメモリのところにはない。そして私の表現の利き手は日本語なのである。そしてその言語がくくりつけられている環境はあまりにというのは、ちょっとやそっとの解せなさではない。どえらい恨みたくなるくらいの気持ちである。日本社会しか知らなかったらこういうものと思えたのかもしれない、でもパラレルに同じ時代に広がる別の社会を知っているほど、その憤りというのは溢れる。

そんなもろもろを抱えかねて、ある日夫に、「ねえ、どうして日本は批評層が薄いって言われるんだと思う?」と聞いた。

「そうねえ。日本の報道はレベル高くないよね。ジャーナリズムのレベル低くて、批評のレベルは高いって国はないんじゃない?」とあっさり言われ、少しも救われはしないがそれは考えたことなかったわ、と少し納得してしまった。というか、もっと絶望は濃くなった。なるほど──

 政治批評でも芸術批評でも、そして皇室評論でも、何を専門性とするかで必要とされる知識は変われど(したがって垣根は存在するが)、それは言葉で事象の意味を解説し、思想を展開する行為、物事を言葉で論じる行為という意味で地続きというのはその通りだ。

報道がレベル低いというのは、批評がレベル低いよりさらに周知の事実で今さら誰も「そう?」なんて言わぬ状況ではないか。ということは、言説・言論全般について、わたしの感じる絶望は分厚い雲のように存在し、それが埼玉県の上空になっても湘南の上空になっても、同じってことか──。 

そう、日本は批評とジャーナリズムが薄い。数年間、漠然と日に日に濃くしてきたその気持ちを一段と濃くしたのが、ある署名運動事件だった。 



Next:▷「【2】日本には社会運動の批評家・評論家はいないのだなと思った日」に続く


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@Globe🌏蓮実 里菜
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